(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

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1: 名無しさん@おーぷん 2017/11/11(土)16:03:49 ID:hmW
これは辛い
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1: ばーど ★ 2017/11/18(土) 16:42:10.11 ID:CAP_USER9
新潟県上越地域では昔からサメを食べる習慣があり、特に山間部では正月料理の煮こごりや煮付け、フライなどとして食べられている。庶民の身近な魚として親しまれているが、いつ頃から食べられているのだろうか──。上越地域のサメ食文化をテーマに上越市所有の古文書などを展示した同市公文書センター出前展示会「資料から探る上越地域のサメ食の起源」が高田図書館(同市本城町)で開かれている。資料調査を担当した同センターの武石勉センター長に聞いた。

江戸中期にはサメ漁の記録

越後のサメ漁や利用法について記した最古の資料は、江戸時代中期の1756年(宝暦6)に寺泊の漢方医、丸山元純が記した「越後名寄なよせ」で、越後の百科事典ともいわれている。この書物には、真鱶鮫まふかざめが訛なまってモウカザメとなったとされる大型のサメのネズミザメを指す「?ふか」について、頸城郡山之下(「西浜」と呼ばれた鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸)でよく獲れると記されている。この地域の地形は西頸城丘陵が海岸線に迫り、海岸は急激に深くなっていることから、大型のサメが生息する外洋まで短時間で達することができ、サメ漁の地理的条件に恵まれていたと見られている。

油を採取するための漁

「越後名寄」には、小型のサメのアブラツノザメ(ボウザメ)を指す「鮫魚さめ」の肉について「臭いはあるものの肉そのものは美味しい」とあり、山椒やみそなどを付けた焼き物、からしや酢みそで味付けしたなます、煮物、すしなどの調理法が紹介されている。一方で、サメの肉は貧しい人々の食べ物とされ、食用以外の利用法として、肝臓は油をとり行灯などの燃料に、皮は刀の鞘の表装や漢方薬の原料、ヤスリにすると記されている。

江戸時代の怪談話に登場する妖怪の「化け猫」が行灯の油を舐めるのは、高価な菜種油ではなく安価なサメなどの魚から取れた油を使っていたためと考えられている。

食用は水揚げ増と飢饉がきっかけ?

江戸幕府は俵物たわらものと呼ばれるフカヒレ、干しアワビ、乾燥ナマコの煎海鼠いりこの3品の清への輸出を奨励。江戸後期の1833年(天保4)には、増産のため漁に励むことや水揚げした3品はすべて幕府請負人に売り渡すことなどを厳命した。これによって大型のサメの水揚げが増え、ヒレや肝臓を取り除いた魚肉が市場に出回るようになった。

1889年(明治22)、旧高田藩士の庄田直道は「越後頸城郡誌稿 物産一巻」に『此?鮫ノ如キ、文化・文政ノ頃迄、当郡ニテ食スルモノ稀ナリ(フカザメは文化・文政の頃まで、この地域で食べる者はめったにいなかった)』と記している。このことから、文化・文政年間(1804~30)までは上越地域では大型のサメはほとんど食べられていなかったが、水揚げが増えた天保年間(1830?44)から食べることが一般的になったと、武石センター長は解釈している。

「越後頸城郡誌稿 物産一巻」(上越市公文書センター所蔵)「西浜」とは鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸
サメ1

武石センター長は「サメ漁は従来は油をとるために行われていた。天保年間は大飢饉で多くの餓死者が出ている。資料はないが、食べ物に困りそれまであまり食べていなかったサメを食べるようになったとも考えられる」と話す。

サメは年取り魚

サメは水揚げされると体内の尿素が分解され、アンモニアが生成される。このため独特の臭みがある反面、アンモニアが雑菌の繁殖を防いで腐りにくくなり、特に冬場は生魚のままでもある程度の日持ちがする。冷蔵技術が未発達の時代、山間部に暮らす人々にとって、サメは塩漬けや干物ではない魚を味わえる貴重品だった。サメが年取り魚としてハレの日の正月料理に欠かせなくなったのは、このような理由も考えられるという。

上越市の魚市場で年末にはサメの競りが恒例となっている
https://www.joetsutj.com/storage/3,57740b13e733

高田図書館で詳細な歴史資料を展示中 展示期間は12月28日まで

高田図書館1階ホールで開催中の出前展示会では、前述の「越後名寄」「越後頸城郡誌稿 物産一巻」のほか、サメ漁についての江戸幕府の触書、明治から大正にかけての正月のサメ食に関する新聞資料など、同市が所蔵する歴史資料6点を展示している。

配信2017年11月17日 (金) 18:48
上越タウンジャーナル
https://www.joetsutj.com/articles/04096800
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510990930/続きを読む
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1: 的井 圭一 ★ 【特別重大報道】 2017/11/18(土) 09:13:24.19 ID:CAP_USER9 BE:511393199-PLT(15100)
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第2次世界大戦直後の1946年4月~47年1月、GHQ関係者が日本各地で撮影した304枚ものカラー写真を、国立国会図書館がウェブ上で公開している。

よく見る白黒写真と違い、鮮やかなカラーで写しだされた当時の様子は、生々しい臨場感にあふれる。
ガレキの山、軍用機の残骸、広がる墓地といった戦禍の跡。
一方、そんな中でも復興に向け活気づく人々。リアルな「戦後」の姿に、ネット上で反響が広がっている。


廃墟の街に掲げられた「エノケン」映画

たとえば、愛知県内で撮影されたと見られる一枚の写真。

舗装がはがれたのか、土がむき出しになった路上に、いくつかの露店が並ぶ。
露店、といっても、角材などでとりあえず形だけ作り、ボロボロの机を置いただけの粗末なものだ。そのうちの一軒には、「ライター修理所」の幕がかけられ、カーキ色の服の男性が黙々と作業を行っている。

前後の写真にも、ガレキだらけの路上を占有して、履物や雑貨を売る露店が多数写っている。
季節は冬だろうか、人々はかつての軍服や国民服をありったけに着重ねる。
戦時中には愛知県、特に名古屋市はたびたびの大規模な空襲を受けたが、撮影された1946~47年の時点でも、生活には深い爪痕が残っていたことが、見る者にはっきり伝わってくる。

一方で冒頭の一枚には、榎本健一の「エノケンの法界坊」や林長二郎(長谷川一夫)の「沓掛時次郎」と、映画館の広告看板が映りこむ。
いずれも戦前作品のリバイバル上映だが、人々のエンタメへの渇望がうかがえ、復興への活力がうかがえる。

これらの写真は、GHQの「文民スタッフ」として来日していたロバート・V・モージャー氏が1946年4月~47年1月にかけ撮影したものだ。
国立国会図書館ではその親族から2008年に寄贈を受け、館内で公開していたが、このほどデジタル化、2017年9月6日からウェブ上で無料公開している。

米軍に接収された松屋銀座

モージャー氏は上記の名古屋のほか、東京、大阪、広島など各地の写真を残している。

たとえば、銀座の街角。「TOKYO PX」の大看板を掲げるのは、今も営業が続く松屋銀座だ。当時は米軍に接収されていた。そしてそのすぐそばには、掘立小屋のような露店が立ち並んでいる。

広島の街並みは、他にも増して荒涼とした風景だ。ぐんにゃりと曲がった鉄骨、壁だけが残った建物。そして、原爆ドーム。
現在では平和記念公園として整備されたドーム周辺だが、当時はそのすぐそばまで、多くの真新しい墓石が連なっていた。

ほかにも、やはり米軍に接収されたそごう大阪店(現・心斎橋本店)、黒く焼け焦げた名古屋の松坂屋、野原に放置された一式陸上攻撃機の残骸、色鮮やかな着物を着た若い女性たち......。

一連のコレクションはツイッターなどでも「超貴重」などと話題になっており、反響のつぶやきが次々と寄せられている。

「メッチャ興奮するなコレ......全部デジタルコレクションで見られるのはありがたい限りだ」
「思わず全部見入ってしまった。戦災を受けた名古屋の写真はあまり見たことがなかったが、これほどの惨状とは」
「昔から変わったものと、今もそんなに変わってないもの。感慨深い」

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その他画像はソース先で
2017/11/17 07:00 J-CASTニュース
https://www.j-cast.com/2017/11/17314122.html

■関連リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - モージャー氏撮影写真資料
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10756455
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510964004/続きを読む
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1: みつを ★ 2017/11/18(土) 02:41:09.87 ID:CAP_USER9
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171117/k10011227311000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_029
(リンク先に続きあり)

11月17日 18時56分

かつての樺太、今のロシア極東のサハリンで、終戦の1週間後に旧ソビエト軍が行った空襲の様子や被害状況などについて、旧日本軍の大本営が記録した文書が初めて見つかりました。

「日本最後の空襲」と言われる空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。


この文書は、昭和20年8月に大本営が連合国側に宛てて作成した記録文書で、東京にある防衛省の防衛研究所で見つかりました。

文書には、終戦から1週間後の昭和20年8月22日に、旧ソビエト軍の飛行機9機が午後3時半から午後4時半にかけて樺太の中心都市だった豊原、今のユジノサハリンスク市で銃爆撃を行ったことや、避難していた民間人5000人~6000人のうち、400人~500人の死傷者が出たことなどが記録されています。

また空襲が停戦合意のあとだったとして、「非人道的行為で平和に禍根」と非難しています。

樺太での空襲は「日本最後の空襲」と言われていますが、関係する史料はこれまでほとんど見つかってなく、詳細な被害状況や具体的な死傷者の記録が見つかったのは初めてで、空襲の実態解明につながる貴重な史料として注目されます。

樺太の元住民で作る全国樺太連盟は「戦後70年以上たっても空襲の史料はほとんどなかった。大変貴重な文書だ」と話しています。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510940469/続きを読む
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1: 名無しさん@涙目です。2017/11/17(金) 21:59:39.63 ID:4jM0jVEU0● BE:714494722-2BP(2000)
大学受験が「聖戦」?戦時下の受験生はこんな問題を解いていた

いよいよ受験シーズンだが、入試問題は時代を色濃く反映する。
今年度の受験生も、時事問題を頭に叩き込んでいることだろう。そしてそれは、70年以上前の戦時下でもまったく同じだった。

(問)大東亜戦争をthe Greater East Asia Warと言ひますが、此際何故Greaterと比較級にするのですか。(なの1309)
(答)日本が共栄圏を建設せんとするのは所謂東亜(East Asia)よりも更に広い地域を目標として居るので、大東亜(Greater East Asia)と言ふのです。東京(Tokyo)が郡部を合併して大東京(Greater Tokyo)と言はれる様になつたのと同じです。
これは、旺文社の受験雑誌『螢雪時代』1943年5月号の、英語公開質問欄のやり取りである。「なの1309」の質問にたいし、旺文社指導局英語部の担当者が回答している。
大東亜戦争は、太平洋戦争の当時の称だ。当然、受験生はその英訳を暗記したわけだが、そこでふと「なぜ比較級なのか」と疑問に思ったのだろう。インターネットがない時代、こうした雑誌上のやり取りは貴重だった。

同誌の1943年7月号には、つぎのような懸賞問題も掲載されている。
英訳せよ。
山本提督が戦死なされたことは誠に悲しむべきことである。吾々はひたすら敵を撃滅してその霊をお慰めすべきだ。

山本提督とは、1943年4月に南太平洋で戦死した連合艦隊司令長官の山本五十六のこと。
同誌の9月号は、「全国民の‘撃ちてし止まむ’の決意を燎原の火と化さしめた山本元帥(Fleet-Admiral Yamamoto)の戦死(death in battle)についての問題である」などと前置きしたうえで、つぎのような答案例を示した。

(1) It is a thousand pities that Admiral Yamamoto died in battle. We should devote ourselves to crush our enemy to honour his memory.
(2) It is truly a matter for regret that Admiral Yamamoto fell in action. We should honour his memory by destroying our enemy completely.

この例題は「Admiral Yamamoto」を別の人物に変えれば、簡単に応用できる。まさに戦時下の入試対策に最適だった。
(以下ソース)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171117-00053490-gendaibiz-bus_all&p=1
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1510923579/続きを読む
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1: 孤高の旅人 ★ 2017/11/15(水) 11:00:15.00 ID:CAP_USER9
弥生の硯、福岡の遺跡で初の完全形…文字使用か
2017年11月15日 07時14分 
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171114-OYT1T50132.html

 福岡県筑前町にある弥生時代中期~後期の薬師ノ上やくしのうえ遺跡で、弥生時代では初めてとなる完全な形の硯すずりが出土していたことが、同町教育委員会の調査でわかった。
 専門家は「弥生時代の日本で文字が書かれていた可能性を示す発見」としている。
 硯は長さ15・3センチ、幅6・3センチ、厚さ0・9センチで、真ん中で二つに割れている。2003年に集落跡から出土し、用途不明とされてきた。柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最近、町教委の依頼で再調査し、薄い墨の痕跡が数か所あると気付いた。現代の硯のように墨だまりはないが、朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩けつがん製で形などが似ており、硯と判断。一緒に出土した土器などから、1~2世紀のものと推定している。
(ここまで332文字 / 残り142文字)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510711215/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/11/15(水) 06:08:20.45 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20171114-00000056-ann-soci

高校の教科書に載っていた土佐藩出身の坂本龍馬、実は教科書から消えるのではなかいかと今、物議を醸しているんです。

歴史上の偉人の用語を減らすことに街の人からは賛否両論の声が聞こえてきました。
なぜ、今この話が出てきているのでしょうか。
 
これは、高校と大学の教員らで作る「高大連携歴史教育研究会」が大学受験に向け、高校の授業が暗記中心になっているのは問題だとして、約半分にする精選案を
発表したというのです。研究会によると、高校の主要歴史教科書「世界史」と「日本史」ともに約3400~3800語が載っているといいます。
 
実際、高校・大学教員を対象にしたアンケート調査で、高校の歴史教育が 「大学入試の影響で用語の暗記中心の授業形態になっている」という質問に肯定的な回答が7割を超えているといいます。そのなかには、どのような案が出されているのでしょうか。それが、戦国時代を生きた武将で「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄。その信玄と川中島の戦いを繰り広げた上杉謙信の名前も。その後、幕末で有名な薩長同盟を成功させた坂本龍馬の名前も。さらに、幕末の教育者、「松下村塾」で知られる吉田松陰なども挙がっているというのです。
 
研究会は、実際の歴史上の役割や意味が大きくないなどとして削るとしています。
その一方で、「共同体」のような概念の用語や「グローバル化」といった現代的課題につながる語句を加えるといいます。
 
そして、龍馬のふるさとの高知県にある坂本龍馬記念館の高松清之館長がその思いを語ってくれました。
 
坂本龍馬記念館・高松清之館長:「残念です。高知県にとって歴史上の人物といえば『坂本龍馬』です。幕末維新のうえで龍馬の役割は大きく、龍馬の行動や考え方は『思考力や表現力を重視する教育』に十分あたると思います。なぜ龍馬が消えてしまうのでしょうか」
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510693700/続きを読む
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1: 名無しさん@涙目です。 2017/11/13(月) 13:15:26.06 ID:Y4j8Rjzi0 BE:306759112-BRZ(11000) ポイント特典
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 3万7千人が蜂起した日本最大の農民一揆「島原・天草の乱」を率い、カリスマ的な指導力を発揮したといわれる天草四郎。
しかし近年、そうした人物が本当にいたのか、乱の実態は農民主体だったのか、などの疑問が提起されている。

天草四郎は実在しなかった? 落城後、届けられた首多数
http://www.asahi.com/articles/ASKC83F1KKC8ULZU005.html
AS20171109004062_comm
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1510546526/続きを読む
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