(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

1: 泥ン ★ 2018/01/18(木) 19:51:54.76 ID:CAP_USER9
湯迫車塚古墳(岡山市)出土の三角縁神獣鏡の鋸歯文。3面とも型が違う鏡なのに、砥石による仕上げ加工痕が酷似している=鈴木勉氏提供
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 三角縁神獣鏡という、古代史の世界で特に目立ってきた鏡がある。鏡の縁の断面が三角形で、神や神獣の図柄をもつ。やっかいな鏡ともいえ、製作地が中国(魏)か日本国内かをめぐり、100年も議論になっている。

 魏鏡説では、倭(わ)国(邪馬台国はその都)の女王卑弥呼の鏡とも呼ばれる。魏志倭人伝によれば、3世紀、卑弥呼は魏に使者を送り、贈り物をもらった。そのリストに「銅鏡百枚」とあり、魏の年号入りの品も含むこの鏡を指すと考えるのだ。

 近畿地方が分布の中心なので邪馬台国畿内説の論拠にもなるが、重大な弱点がある。100枚どころか500枚以上も見つかっている上、肝心の中国から出てこないのだ。「倭の好む鏡を魏が特別につくって贈った。だから中国にはない」とする「特鋳説」があるが、考古学の常道にないアクロバット的学説だろう。

 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。

 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。

 そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。

 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。

 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。

 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。

 その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。

 加工痕の画像という一目瞭然の新手法で国産説を提起した鈴木氏は「(鏡の形や図像、銘文をたどる)系譜論では、製作地問題は絶対に解決しない」と、製作技術に目を向けたがらない考古学の実情に警鐘を鳴らす。

   ■  ■

 対する考古学界の反応がさびしい。1年たっても、村瀬陸・奈良市埋蔵文化財調査センター技術員の書評(「考古学研究253」所収)が目につくくらいだ。

 村瀬氏は「実験あっての結果と、非常にわかりやすい分析方法。研究はネクストステージ(新段階)に入った。(本が)全て正しければ国産になる」と評価する。ただ「加工痕の古墳ごとのまとまりも、製作の時期差が加工痕の違いになった可能性がある」などと、鈴木説にはまだ課題があると考える。一方で「鏡研究者側が疑問点をどんどん出さないと」と、議論が起こりにくい学界の閉鎖体質も指摘した。

 三角縁神獣鏡が国産なら、影響は甚大。考古学では従来、中国渡来の貴重な鏡が列島の中央から各地の首長に下賜・配布されたと考える中央集権的な王権論が主流だ。その鏡が国産で、しかも工人集団が各地に出向いて製作していたとなれば、半世紀以上に及ぶそんな定説的国家観など消し飛んでしまう。

 27歳の若手研究者、村瀬氏に発言を任せておけばいいという問題ではないと思う。【伊藤和史】

毎日新聞 2018年1月18日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1516272714/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2018/01/07(日)19:49:27 ID:hel
あと一つは?
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400px-日本本土決戦の概略図

1: 風吹けば名無し 2018/01/09(火) 21:41:41.26 ID:FOZK21eS0
>>徹底的な海上封鎖を実施して資源の乏しい日本を兵糧攻めにするとともに、広島県と長崎県に続く原爆投下、及び大規模な化学兵器の使用、農地への薬剤散布によって食料生産を不可能にする事であった。
>>NBC兵器の無差別投入や、マスタードガス、サリン攻撃などの攻撃も検討されていた。


ヤバすぎやろ…
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1515501701/続きを読む
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1: 泥ン ★ 2018/01/10(水) 01:20:30.26 ID:CAP_USER9
大阪の町と戦後に再建された現在の大阪城。豊臣時代の大坂城はこの下に埋まっている=大阪市(本社ヘリから)
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 大阪のシンボルといえば、今も昔も大阪城。太閤さんの城というイメージが強いが、実は徳川の再建で、元の「豊臣大坂城」はその下に埋まっていた-。そんな事実が徐々に明らかになっている。上方文化を学ぶにはまず大阪のまちづくりから…となればやはり、大阪(坂)城を学ばずして大阪は語れない。

■「ブラタモリ」で取り上げてほしかった絵図

 「ブラタモリ」というテレビ番組が人気を呼んでいる。古地図を手に、まちを散策し、現代に残る歴史の痕跡を探る番組である。

 ブラタモリの大阪編は終わったが、ぜひ取り上げてほしかった絵図がある。江戸時代に幕府の大工頭を務めた中井家伝来の建築絵図である。昭和35(1960)年、中井家で「大坂御城小指図(さしず)か」と上書きのある袋から和紙に透き写した絵図が発見された。これが豊臣時代の大坂城の本丸図であった。

 それまで、現在の大阪城は豊臣秀吉が築城し、大坂の陣の後、徳川氏が修復したものと考えられていた。しかし、34(1959)年に行われた大坂城総合学術調査で、現存の石垣や櫓(やぐら)はすべて徳川時代の新造であることが確認された。しかも地下7メートルの所から謎の石垣が現れ、その位置が中井家の本丸図と一致した。豊臣大坂城は現在の大阪城(徳川大坂城)の地下に埋まっていたのである。

 中井家の絵図の出現で、秀吉時代の大坂城本丸の姿が現実になった。馬蹄(ばてい)形の堀と石垣は現在の大阪城と相似形で、南は空堀(からほり)、東から北は水堀という構成も同じである。しかし建物配置は異なり、現在の天守は本丸の中央にあるが、豊臣の天守は東北隅にそびえていた。

 豊臣大坂城本丸図の発見から半世紀。膨大な中井家資料は大阪くらしの今昔館(大阪市)に寄託され、平成23(2011)年に重要文化財の指定を受けた。

 豊臣大坂城の城下町については大学の後輩の宮本雅明氏の研究がある。氏は江戸時代に東横堀川の高麗橋(こうらいばし)西詰に建っていた櫓屋敷に注目した。これは高麗橋通を挟んで南と北にあった2棟の町家で、屋根の上に城郭風の櫓が載っていた。

 宮本氏は江戸時代の地図に豊臣大坂城本丸図を重ね、2つの櫓屋敷の間から豊臣天守が見通せたことを実証した。当時、ヨーロッパはバロックの時代で、遠近法や眺望を用いた都市計画が行われていたが、櫓屋敷はそれに匹敵するものである。昭和に架け替えられた高麗橋には櫓をかたどった擬宝珠(ぎぼし)がある。これは櫓屋敷にちなんだ歴史の痕跡である。

 ブラタモリは自然地形や土木事業から歴史の痕跡を探る企画が多い。私は建築学科の出身なので、建造物のまち歩きにこだわりたい。

(谷直樹・大阪くらしの今昔館館長)

■水路と大坂の産業戦略 圧倒的輸送力と「ワイガヤ」の土壌

 地名には記憶がある。古墳時代、大和朝廷の職人集団が住む「玉造部」は勾玉(まがたま)の製造拠点だった。やがて大坂城下に入り、明治維新後に大阪砲兵工廠の関連商店や工場が広がって「大大阪」を支える。今、そこはJRの駅名や地名に「玉造」という名を残す。

 「天下の台所」となった上方では、北海道の海草を見て昆布をつくり、出汁(だし)にして上方料理を生んだ。綿花を見て着物にし、ファッションを育てる。菜種を見て菜種油にし、夜を明るくした。海路によって全国から物資を集め、いろいろな人が集まり「それ、いいな」「これ、いけるのとちゃうの?」といったワイガヤから独創的なビジネスを次々と生みだしていった。

 このワイガヤの土壌が、明治になって近代の上方を生む。大阪に設けられた舎密局(せいみきょく=明治政府が開講した理化学研究機関)、造幣寮、砲兵工廠といった近代産業基盤が整備され、大阪紡績がトリガーとなって、東洋のマンチェスターと呼ばれる「商業・産業」都市が生まれた。この地が長年培ってきた港湾・水路による圧倒的輸送力▽商工農が連携した付加価値創出力▽問屋・商社による交易力-などが、紡績、繊維、機械、家電という産業を上方に生みだしたのである。

(池永寛明・大阪ガスエネルギー・文化研究所所長)

産経ニュース 2018.1.9 09:00
http://www.sankei.com/west/news/180109/wst1801090009-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515514830/続きを読む
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1: 泥ン ★ 2018/01/09(火) 20:08:44.20 ID:CAP_USER9
フィリピンの基地から出撃した陸軍特攻隊「万朶隊」の佐々木友次伍長機(写真=佐々木友次氏提供)
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「9回特攻に出撃して、9回生きて帰ってきた」人がいます。名前は佐々木友次。作家・演出家の鴻上尚史さんは、92歳の佐々木さんに5回会い、その証言を著書『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)にまとめました。鴻上さんは取材を通じ、「志願して死んでいった」という話は、特攻を「命令した側」の見方だったのではないか、と考えました――。

■「命令した側」が作り上げた特攻隊のイメージ

佐々木友次さんの人生を知ることは、特攻隊を理解していくことでもありました。

調べれば調べるほど、「特攻隊とはなんだったのか?」という質問は成立しないと考えるようになりました。

特攻隊は「命令した側」と「命令された側」があって、この両者をひとつにして「特攻隊とはなんだったのか?」と考えるのは無意味だと思うようになってきたのです。

「特攻隊は『志願』だったのか、『命令』だったのか?」という今も続く論争も、この二つの視点を明確にしなければ、意味がないと考えるようになりました(佐々木友次さん達『万朶隊』(※)は明確に「命令」でしたが)。

※編注:佐々木さんは日本陸軍の特攻隊『万朶隊』の第一回出撃隊に選ばれた。

『神風特別攻撃隊』という戦後、ベストセラーになった本があります。大西瀧治郎中将の部下であり、海軍の特攻を命じた中島正、猪口力平の二人が書いたものです。

英語にも翻訳され、世界に「カミカゼ」のイメージを伝えました。「積極的に自分から志願し、祖国のためににっこりと微笑んで出撃した」という、今も根強いイメージです。

それには、第2章で紹介した関行男大尉が海軍第一回の特攻隊長に指名された時の様子が描写されています。

深夜、寝ているところを士官室に呼ばれた関大尉に対して、所属部隊の副長である玉井浅一中佐は、肩を抱くようにし、二、三度軽くたたいて、現在の状況を説明し、

「『零戦に250キロ爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)ついてはこの攻撃隊の指揮官として、貴様に白羽の矢を立てたんだが、どうか?』

と、涙ぐんでたずねた。関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。(中略)目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。―一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……

と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

『ぜひ、私にやらせてください』

すこしのよどみもない明瞭な口調であった」

陸軍の『万朶隊』のように、いきなり体当たりを命じられてはいません。

これを「志願」という人もいるかもしれません。けれど、厳しい階級社会の軍隊において、中佐という二階級上の上官から「涙ぐまれながら」「どうか?」と言われて断るのは本当に難しいと思います。

ところが、1984年、戦後40年近くたって、この夜のやりとりが猪口・中島の書いた嘘だと判明します。

のちに、僧侶になった元副官の玉井氏が、関大尉の中学時代の同級生に対して、「関は一晩考えさせてくれ、といいましてね。あの日は豪雨で、関は薄暗いローソクの灯の下で、じっと考え込んでいました」と証言していたのです。

また、『特攻の真意 大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(神立尚紀 文春文庫)には、同じことを猪口参謀が大西中将の副官だった門司親徳氏に戦後、話したと書かれています。

「一晩考えさせてください」と答える関大尉に、玉井中佐は、編成は急を要する、できれば、明日にも、敵機動部隊が現れれば攻撃をかけねばならない。と、重ねて、大西長官の決意を説明し「どうだろう。君が征ってくれるか」とたたみかけたのです。

そして、関大尉は、「承知しました」と短く答えました。

これは、「志願」のふりをした「強制」です。いったん、ふりをするだけ、余計に残酷だと感じます。

■『神風特別攻撃隊』の多数の欺瞞

『神風特別攻撃隊』では、他の隊員の志願に関しても、嘘が書かれています。

初めて隊員達に特攻の志願を募った時を、猪口参謀は次のように描写しています。

続きはソース
http://president.jp/articles/-/24135
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515496124/続きを読む
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1: 泥ン ★ 2018/01/08(月) 22:33:46.59 ID:CAP_USER9
NHK 01月08日 06時45分
http://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20180108/4143911.html
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今から240年前の江戸時代に松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書がロシアで見つかり、調査に参加した専門家は「公式文書の原本としてはもっとも古いものとみられ、貴重な発見だ」と話しています。

この文書は東京大学史料編纂所がロシアのサンクトペテルブルクで行った調査で見つかりました。

文書は240年前の1778年、安永7年7月に松前藩の「蝦夷地奉行」から現在の根室市にあった「ノッカマップ」というアイヌの集落の有力者、「ションコ」に宛てて出されました。

文書では「ションコ」に対して、アイヌの人と和人が交易などを行う拠点施設の「運上小家」の管理を徹底することや、和人が海で遭難したときは手当てをした上で、周辺のアイヌの集落と協力して松前まで送り届けることなどを求めています。

北海道博物館によりますと、松前藩の文書は、幕末の混乱などで多くが失われていて、今回の文書は松前藩からアイヌの有力者に宛てて出された公式文書の原本としてはもっとも古いと考えられるということです。

調査に参加した北海道博物館の東俊佑学芸主査は「松前藩が北海道東部へ支配を及ぼした時期を解明する上で貴重な資料で、なぜロシアに残されていたのかなどについても今後、調べていきたい」と話しています。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515418426/続きを読む
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1: 泥ン ★ 2018/01/08(月) 17:35:24.92 ID:CAP_USER9
九州での空爆に向かう米陸軍航空軍のB24爆撃機=1945年7月29日、沖縄(沖縄県公文書館所蔵)
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沖縄からの主な攻撃地
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 太平洋戦争末期に米軍が、占領した沖縄を出撃拠点に日本本土を大規模攻撃していた実態が7日、機密指定を解除された米公文書で明らかになった。終戦までの約3カ月間に、南部上陸を見据えていた九州など計13県の65カ所以上が標的となり、約7千トンの爆弾が投下された。関東学院大の林博史教授(現代史)が米国立公文書館の陸軍航空軍や海兵航空隊の史料計1万ページ以上を収集、分析して確認した。

 本土空襲に関しては、太平洋マリアナ諸島の基地が拠点になったことや、一部が沖縄からの出撃だったことは知られている。東京大空襲・戦災資料センター(東京都)の山辺昌彦主任研究員は、沖縄からの米軍による本土攻撃の全体像は明らかになっていないとし「史料が網羅的に紹介されれば、全体像を把握する上で意義がある」と評価している。

 米軍は1945年3月に沖縄・慶良間諸島に上陸し、沖縄戦が始まった。激しい地上戦の一方で、沖縄戦闘機司令部の史料などによると、海兵航空隊は同5月13日に、沖縄の読谷飛行場から鹿児島・喜界島の飛行場を爆撃し、本島より北の攻撃に着手。4日後には鹿児島県鹿屋市などの複数の飛行場を標的に九州本土攻撃も始めた。

 別の史料によると九州と薩南諸島などの日本国内(台湾と朝鮮含む)に陸軍航空軍は約7千トン、海兵航空隊は約340トンの爆弾を投下した。

 小さな集落や列車、漁船などあらゆる施設を攻撃。訓練目的の鹿児島・沖永良部島の爆撃や現宮崎県えびの市周辺の通りでの機銃掃射による多数の殺害など無差別に攻撃を行っていたことを示す記述もあった。【共同】

■無差別攻撃、生々しく 集落、列車、民間人…

 太平洋戦争末期に米軍が九州南部上陸を見据えて沖縄から本土攻撃を実施していたことを記した米軍史料には、軍事施設だけでなく、民間人や民間居住地域を無差別に攻撃していた生々しい様子が細かく記されている。

 史料を分析した関東学院大の林博史教授は「米軍の爆撃機や戦闘機が、小さな集落や人が集まっている場所、列車など民間人に対しても無差別に攻撃していることが史料には明確に示されている」と指摘している。

 「機密扱い」の表記のある陸軍の報告書では、1945年8月10日に現在の宮崎県えびの市周辺の「目抜き通りで150~200人の群衆に機銃掃射し、15~20人を殺害した」とあった。

 海兵航空隊の史料によると、F4U戦闘機2機が「テストと習熟飛行」として「8月4日に鹿児島・沖永良部島の集落を500ポンド爆弾2発やロケット弾13発などで攻撃した」という。島内の建物や小屋を破壊し、火災を引き起こし、はしけ数隻を沈めたようだとしたが「敵の(軍事)施設は確認されなかった」としている。【共同】

■先駆的取り組み、活用を

 沖縄国際大の吉浜忍教授(沖縄近現代史)の話 米軍が沖縄戦下から本土空襲のために、旧日本軍が造った飛行場を読谷飛行場や嘉手納基地などとして整備拡張し、さらに普天間飛行場などを造成して備えたのは知られている。しかし、どの飛行場からどの機種がどこを攻撃したかについては具体的に分かっておらず、米軍史料で初めて明らかにした先駆的取り組みだ。沖縄戦研究は旧日本軍史料や住民証言の分析は大体終えた。米軍史料は残されており、活用が重要になる。【共同】

佐賀新聞 10:46
http://www.saga-s.co.jp/articles/-/167132
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515400524/続きを読む
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1: 紅あずま ★ 2018/01/02(火) 02:53:14.81 ID:CAP_USER9
古書の中から発見された隕石小片の正体を分析、極地研などの研究
財経新聞:2017年12月31日 17:36
http://www.zaikei.co.jp/article/20171231/418934.html

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分析した隕石。図中の黒線は5mm。国立科学博物館所蔵。(画像:国立極地研究所発表資料より)


 1950年代、京都の土御門家(つちみかどけ)の古典籍の中から、約0.1gの隕石小片が発見された。
紙包みが同梱されており、1817年12月29日に落下した八王子隕石についての記述と、1866年6月7日に落下した曽根隕石についての記述があった。

 長らく、この隕石小片は八王子隕石の断片の一つであると信じられてきたのだが、果たしてそれは正しかったのか。
それについて今回分析を行ったのが、国立極地研究所、九州大学、国文学研究資料館、総合研究大学院大学からなる研究グループである。

 1817年、つまり文化十四年の隕石は相当な多数が八王子一帯に降り注いだらしい。
それに関する様々な記録が残されており、また発見された隕石の一部は江戸幕府勘定奉行所に届けられて天文方の調査するところともなったのだが、
既に散逸しており、確かに間違いなく八王子隕石の一つである、と裏付けられる現物は残っていない。

 一方、曽根隕石というのは、京都に落ちた約17キログラムの隕石である。現在、京都府が所蔵し、国立科学博物館が寄託を受け展示している。

 この隕石小片が八王子隕石であると証明することは非常に難しい。比定に用いるべき他の八王子隕石が存在しないからである。
だが、曽根隕石の方は前述のようにサンプルがあるので、比定が可能である。

 ただ、わずか0.1グラムの小片を分析することは、従来の技術では困難であった。
それで今までこの隕石の正体は謎のままであったのだが、今回は、「はやぶさ」のサンプルリターンによって得られた微細片の分析にも用いられた、最新の分析技術が用いられ、鑑定が行われることになった。

 結果としては、この小片は「H5普通コンドライト」という種類の隕石であり、曽根隕石と全く同一のものである、ということが分かった。

 H5普通コンドライトは地球に降り注ぐ隕石の18%を占めるごく一般的な隕石であるので、八王子隕石と曽根隕石が同じタイプの隕石だった、という可能性はまだ残るが、いずれにせよ、これ以上のことは現状では謎のままである。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1514829194/続きを読む
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