(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

1: ばーど ★ 2017/06/19(月) 11:45:45.51 ID:CAP_USER9
太平洋戦争中に学徒出陣し、捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の獄中の手記などおよそ500点が見つかり、専門家は、判決を待つ若者の心境を伝える貴重な資料だとしています。

資料は、終戦直前の昭和20年8月10日ごろ、福岡市郊外で捕虜のアメリカ兵の虐待に加わったとして、横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた元学徒の大槻隆さんが残した手記など、およそ500点です。
遺族が兵庫県内の自宅で見つけ、大槻さんの母校の立命館大学に寄贈しました。

学徒出陣のあと、福岡の陸軍司令部に配属された大槻さんは、戦後、収監された巣鴨プリズンで多くの歌を手記に残し、「あきらめど なほ口惜しき我なれや 命令なくばかくなきものを」など、上官の命令に従ったことを悔やむ気持ちをつづっています。
また、ほかの戦犯に死刑が言い渡される中、法廷で判決を待つ心境もつづられ、「いささかの なごみも消えて下腹の 冷えゆく覚ゆ死刑宣告」など、死の恐怖に直面し、葛藤する胸のうちが記されています。

大槻さんは重労働30年となりますが、判決の7年後に仮出所し、およそ30年間、ふるさとの高校で教員を務め、平成9年に75歳で亡くなりました。
横浜裁判に詳しい間部俊明弁護士は「被告席に座らされた若者の偽らざる声が伝わってくる内容で、非常に貴重な資料だ」と話しています。

「戦争は正しい判断ができないようにする」

大槻隆さんの長女で、手記を寄贈した番匠ますみさん(51)は、父は家族の前で戦争の話をほとんどしなかったものの、小学生の頃、問わず語りに、「兵隊だったときにアメリカ人の捕虜を撃たなければいけないことがあり、撃ちたくなかったが、しかたがなく撃った。上からの命令は絶対で、逆らえる状況ではなかった。戦争は人が正しい判断をできないようにしてしまうと言っていた」と話しています。

また、BC級戦犯として裁かれたときのことについて、「死刑になると思っていたので怖かったと言っていた」と話しています。

配信 6月19日 11時15分
NHK NEWS WEB
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170619/k10011022441000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_004
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497840345/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/06/15(木) 13:05:53.10 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00010000-saga-l41

年老いた顔、牙から真っ赤な舌

佐賀に人魚伝説? 佐賀市本庄町の東光寺に、年老いた「人魚」を描いたとみられる謎の掛け軸がある。胸から下は魚、肩口までうろこをまとったその姿は、確かに人魚。
笑っているのか、むき出しになった牙の隙間から真っ赤な舌がのぞき、目を見開いて振り返る様子は、見る人が声を上げるほど、おどろおどろしい。

いつ誰が何のために?全てが謎

「いつ誰が何のために描いたものか、全てが謎」と住職の三浦祥善さん(68)。
絵に落款はなく、裏側は白紙で日付も作者の名前もない。

東光寺は佐賀藩祖・鍋島直茂の父清房の代まで祖先供養する氏仏(うじぼとけ)として崇敬され、その後も直茂が薬師堂や厨子(ずし)を建造するなど、鍋島家とゆかりが深い。

掛け軸にまつわる言い伝えは一切なく、「現在の建物に寺を移した1953年には
既にあったと記憶している」という。三浦さんの祖母が「人魚(にんぎょ)の魚(ぎょ)」と呼んでいたため、今もその名前を使っている。

不気味な容姿

かつては絵が見えにくいほど表面が黒ずんでいた。20年ほど前に「どう描かれているのかよく見てみたい」とクリーニングで汚れを取り除いたところ、舌の鮮やかな赤色が現れ、「不気味な容姿にあらためてびっくりした」という。

掛け軸を見て泣き出すことも

寺を訪れた子どもが掛け軸を見て泣き出すこともあったため、普段は飾らず床の間にしまっている。三浦さんは「見る勇気のある方は、ぜひご連絡を」と話す。


人魚の老婆が描かれた掛け軸=佐賀市本庄町の東光寺
20170615-00010000-saga-001-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497499553/続きを読む
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1: チンしたモヤシ ★  2017/06/16(金) 05:48:04.95 ID:CAP_USER9
6月16日は「和菓子の日」。さかのぼること平安時代……その由縁と歴史について
あの吉田松陰も大好物だった……といわれる「大福」
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tenki.jpサプリ 記事(更新 2017/6/15 16:30)
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017061500078.html


6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
66-_kasho
http://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2017/06/image-11-900x491.jpeg
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071

梅雨らしい空模様が続くと外出が億劫になりますが、そんな日に自宅で過ごす楽しみといえば「菓子、アイス、スイーツを食べること」という方も少なくないと思います。特に見た目がかわいらしいケーキや和菓子は、天気に関係なく(笑)、ひと時の幸せをもたらしてくれますよね!
そんな折、明日6月16日が「和菓子の日」であることをご存じですか? 実はこの「和菓子の日」は、古くから“いわれ”のある記念日なのです。それにしても、なぜ6月16日が「和菓子の日」なのでしょう? 和菓子にまつわるトリビアも交えつつ、早速ご紹介していきましょう。

●「嘉祥の日」が「和菓子の日」に

だいぶ古い話になりますが、遡ること約1170年前の平安時代(848年/承和15年・嘉祥元年)。
仁明(にんみょう)天皇が「6月16日に“16”にちなんだ菓子などを神前に供えるように」という神のお告げに従ったことが「和菓子の日」のそもそものはじまり、といわれています。そして、仁明天皇はこのお告げをきっかけに、「めでたい」という意味がある「嘉祥(かしょう)」に元号をあらためたそう。神のお告げによって元号があらたまる……なんて現代では考えられないことですが、平安時代の時代性がうかがえるエピソードでもありますね。
鎌倉時代になると、時の天皇が6月16日に16枚の通貨と同価値の菓子を神前に供えるようになりました。さらに、室町時代には6月16日が「嘉祥の日」となり、天皇にお祝いの菓子を献上していたと『御湯殿上日記』に記されています。安土桃山時代には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を行っていましたし、江戸時代には6月16日に大名や旗本を江戸城の大広間に集めて、時の将軍から菓子が配られました。その際に用意された菓子は約2万個!にものぼり、儀式は「嘉祥頂戴」と呼ばれました。
庶民にも嘉祥の習わしは広まり、十六文(もしくは米一升六合)で買った菓子を食べていたのだとか。さらに、6月16日の夜に、16歳の子の振袖をおとして詰め袖にする「嘉祥縫」という風習もありました。他にも、6月16日に収穫した梅で作った梅干しを「嘉祥の梅」と呼び、旅立ちの日に食べることで旅の無事を祈ってもいました。
平安時代に始まった「嘉祥の日」の習わしは、災難を逃れ、健康を招く恒例行事として明治時代まで続きます。その後、昭和54(1979)年に一度忘れられた「嘉祥の日」を復活させるべく、全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」としたのです。

つづく >>2-5
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497559684/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2017/06/13(火)10:47:57 ID:WD4
10~12代あたりが将軍と時代共々ちーとも思い出せん
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1: 名無しさん@涙目です。(アラビア)@\(^o^)/ [IN] 2017/06/13(火) 19:31:24.24 ID:CgFwMCyH0 BE:446172865-2BP(2000)
零戦、正式名称「A6M 零式艦上戦闘機」は、日本で最も有名な戦闘機として世界的に高い人気を誇り、映画やマンガ、ゲームをはじめとして様々な作品においてもその姿を見ることができます。

しかしながら零戦は特攻機として使われたという事実、また凄惨な世界大戦における日本の敗北という事実から、高い人気や知名度と同じだけの「負の象徴」を背負わされてもいるといえます。
そのなかでも「零戦は性能を重視したため、重い防弾板を排除した人命軽視の欠陥機である」という評価は最たるものでしょう。

「防弾板」の有無で評価ができないワケ

確かに零戦は防弾板を搭載していませんでした。しかしこれはけっして性能を重視したためでも、人命軽視のためでもありません。
ただ単に零戦の開発が始まった1937(昭和12)年の時点において、防弾板の必要性については世界的に認知度が低かっただけにすぎず、ほぼ同時期に開発された他国の戦闘機も、一部を除いてほとんど搭載していませんでした。
戦闘機における墜落要因の多くは火災です。零戦はそのぜい弱というイメージとは反対に、設計時から胴体内燃料タンクの火災を食い止める消火器の搭載が要求されており、事実、最初のタイプからこれを搭載しています。
後期型では比較的被弾する可能性の高い主翼内タンクにも設けられ、実際被弾して発火しても帰還が可能であったと言われます(ただしこれは火災で戦死した人は証言を残せないことを考慮する必要があります)。

防弾板よりも致命的だった「ある問題」

零戦が当初、防弾板を搭載していなかったことは事実です。また他国に比べて防弾板の装備が遅かったことも否めません。
しかし零戦が性能を優先し人命軽視の設計だったという事実はなく、また防弾板の有無によって何か大きな影響があったかというと、おそらくなかったのではないでしょうか。

零戦の短所としては広く知られる防弾板の有無よりも、戦争後期を除いて「無線機が全く機能しない」という本当の欠陥のほうがはるかに問題であったといえます。
零戦パイロットらはチームワークが取れないことによってほとんど連携せずに戦っていたため、アメリカ軍戦闘機パイロットが連携を重視するようになると、勝っていたはずの機種にすら対応できなくなります。

https://trafficnews.jp/post/73053/
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1497349884/続きを読む
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1: 的井 圭一 ★ 【特別重大報道】2017/06/11(日) 20:27:45.49 ID:CAP_USER9 BE:511393199-PLT(15100)
sssp://img.2ch.net/premium/1051729.gif
明治新政府が全国に先駆けて京都に設置した目安箱に、住民らが投書した訴状の原本34通が京都市内で見つかった。
幕末の動乱で荒廃した街の復興や、物価高騰を案じる民衆の声がつづられている。
この時期の訴状が見つかるのは極めて珍しいという。

 34通の訴状は、慶応4・明治元(1868)年を示す「戊辰(ぼしん)歳」、目安箱への訴えを指す「箱訴(はこそ)」の文字が書かれた冊子にとじられていた。
投書には同年6月~12月の日付があった。
「九冊之内」という記述があり、9冊あったうちの1冊とみられる。明治新政府は徳川幕府にならい同年2月、全国初となる目安箱を京都の三条大橋西詰めに設置。その後、東京や大阪にも広がった。

 訴状の内容は、荒れた街の復興を求める声や、新政府の紙幣・太政官札(だじょうかんさつ)の発行に伴う物価高騰への苦情、学校・住宅建設の要望、「京都府」という呼称が良くないので「平安府」にしてはどうかという提案など多岐にわたる。
「僧侶のぜいたくを制限せよ」という訴えや「新政府の役人たちが酒や女色にふけっている」といった告発もあった。

 古文書研究で知られる国際日本文化研究センターの磯田道史(みちふみ)・准教授(46)=日本史学=が5月下旬、京都市内の古書店で見つけた。
磯田准教授は「明治維新という革命直後の民衆の肉声が聞こえてくるようだ。これまで明治維新は志士や政治家の分析が目立ち、住民の視点からの研究が欠けていた面があった。維新史の空白を埋める貴重な史料だ」と話している。

役人の素行の悪さを告発する訴状=京都市中京区
AS20170610000857_comm
明治新政府の目安箱、投書発見「役人が女色にふける」:朝日新聞デジタル 2017年6月11日12時50分
http://www.asahi.com/sp/articles/ASK6952X7K69PLZB010.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497180465/続きを読む
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1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/06/07(水) 22:02:17.28 ID:JT767LQy0
「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」

明治時代かっけー
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1496840537/続きを読む
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1: 10分間電マを当ててイキ我慢 ★ 2017/06/10(土) 06:52:56.72 ID:CAP_USER9
 2016年7月に天皇陛下が生前退位のご意向を示されてから、にわかに話題にのぼっているのが「元号」だ。我が国は明治以来、天皇一世一元制を採用しているため、天皇の交代はそのまま元号が改まることを意味する。

 ところで、そもそも元号とはなんだろうか? 通説では、紀元前115年頃の古代中国、前漢の武帝が「建元」という元号を定めたのが始まりとされる。

 発案者の名は詳らかでないが、権力者がその治世を記号的に表すというアイデアは、当時の中国の影響下にあった周辺地域(冊封国)へと広まり、やがてそれぞれの王朝が独自の年号を用いるようになっていった。

 元号は、かつては朝鮮半島でも用いられていたし、安南(ベトナム)も使っていた時期がある。古代日本も、そんな国のひとつだった。ただ、現在は“本家”の中国でも元号は使われておらず、韓国やベトナムでも使用されていない。日本は現在、世界で唯一の元号使用国ということになる。

●元日改元なら1200年ぶり…過去には一度だけ

 現行の「皇室典範」は、天皇の終身在位を基本としている。そもそも生前退位は想定されていなかったため、陛下のご意向を受けた政府は迅速な対応を求められた。報道によれば、新天皇に位を譲られた後の称号は「上皇」となるようだ。また、権威の二重化を防ぐために、国事行為などをすべて新天皇に譲る方針も決まったという。

 おそらく、事前に新元号名を公表した後、2019年元日に新天皇即位に伴う儀式を行い、同日から新元号を用いる公算が高い。その背景には、国民生活への影響を最小限にとどめるには元日の譲位・改元が望ましい、という政府側の思惑が透けて見える。

 昭和から平成に改元されたときは、昭和天皇崩御の翌日にいきなり「平成」という新元号名が示されたため、世上は混乱をきたした。当時の小渕恵三官房長官が、記者会見で「平成」と墨書きされた奉書紙が収められた額縁をかざして見せたシーンを覚えている人も多いだろう。

 ところで、長い日本の歴史のなかでも、元日に改元されたことはこれまで一度しかない。奈良時代後期の781年に伊勢斎宮に美しい雲が現れたことが吉兆とされ、それまでの「宝亀」から「天応」に改元されたのが、唯一の元日改元なのだ。今回、ポスト平成の新元号が元日改元となれば、およそ1200年ぶりで史上二度目ということになる。

●「明治」の元号は天皇自らのくじ引きで決まった

ビジネスジャーナル

https://news.infoseek.co.jp/article/businessjournal_343561/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497045176/続きを読む
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