(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2018/02/08(木) 16:54:35.50 ID:CAP_USER9
記念艦「三笠」(横須賀市稲岡町)の本年度の来艦者が7日までに20万人を突破した。

同艦は近年、艦艇を擬人化したゲーム「艦隊これくしょん」などの人気を受けて来艦者が増え、44年ぶりに“大台”を超えた2014年度から4年連続の20万人突破となった。

同艦は昨年、三笠の操艦シミュレーターや、バーチャルリアリティー(仮想現実)の技術を使って日本海海戦を体験できるコーナーなどデジタル展示を新設。
同艦を管理する三笠保存会によると、昨秋に相次いだ台風の影響で来艦者数が落ち込み、昨年度より1カ月遅い20万人突破となった。

本年度の20万人目として3日に東京都世田谷区から家族と訪れた小学5年生の谷口想真君には、同保存会の荒川堯一理事長から認定証と記念品として三笠の模型が贈られた。

明治時代の歴史を学んでいるという谷口君は、「いろいろな部屋やハンモックが見られて興味深かった。これからもっと歴史を勉強したい」と話した。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180208-00023760-kana-l14
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1: 泥ン ★ 2018/01/13(土) 23:52:48.50 ID:CAP_USER9
清水寺に建つ「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)之碑」=京都市東山区で、戸田栄撮影
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坂上田村麻呂公園内にある墳墓=京都市山科区勧修寺東栗栖野町で、戸田栄撮影
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 本州の北方や東方にあって、ヤマト側とは異なる世界を築いていた人々は「蝦夷(えみし)」という蔑称でしか今に伝わっていない。奈良や京都を中心とした初期の日本が勢力範囲を拡張していく中で、蝦夷は征服されるべき野蛮人というイメージを持たされているが、本当にそうだったのか? 歴史家の故・上田正昭氏は「日本人の多くの人がもっている蝦夷観は間違っている」(世界人権問題研究センター編・人権問題研究叢書15「講座・人権ゆかりの地をたずねて」)と指摘する。今はよく知るすべもないが、やはりどんな人々であったのかが気になる。

 「大和朝廷から見た史料しか残っていませんから、そうなってきました。大和朝廷は中華思想で、自らの周辺は夷荻(いてき)であり、未服従の遅れた人々だと位置づけました」と、井上満郎・京都市歴史資料館長は語る。奈良時代初めに成立した日本書紀に描かれる蝦夷は、怪物のようでもある。冬は穴に寝て夏は木の上に巣を作って住み、毛皮の上で血を飲んでいるという。山に登れば鳥が飛ぶように、草の中を駆ければ獣のように素早いとも。同じ人間であるから、こうした描き方は現代ではリアリティーを欠くが、昔は未知の世界への恐れが強く、こんな調子で通用したのかもしれない。

 井上館長によると、近年、蝦夷がいた東北地方が古くから相当に文明化の進んだ地であったとわかり、蝦夷を考えるのに重要な手がかりとなっている。縄文時代の大規模な集落跡である三内丸山、大陸と交易をしていた平安時代にさかのぼる十三湊の遺跡発掘などが、かつての東北のイメージを覆した。加えて、上田氏は東大寺の大仏の完成は陸奥守(現在の宮城県などを管轄)からの黄金献上があってのこととし、そこに地域の大きな経済力をみる。

 経済力は文化を招き入れ、奥州藤原氏による平泉の文化が花開く。京都市出身の井上館長は初めて平泉を訪れた時、「京の仏像とは違う文化のもとにある仏像と一目でわかり、驚きました」と語った。そして、それは蝦夷の社会や文化の流れをくむ、大和朝廷側とは異なる豊かな社会があったことを示しているという。

 それにしても、蝦夷とはどういう人たちだったのか? アイヌとの関連をつい考える人が多いようだが、文献資料でそう示すものはなく、本州の北方や東方に住み、大和朝廷側の支配の外にあって、独自の暮らしを営んでいた人々とまずは把握すべきらしい。奈良時代後期からは大和朝廷と、集団的に戦っており、部族的なまとまりを持っていたとも考えられている。

 さて、蝦夷についての想像をふくらませながら歩ける京のマナび場を紹介しよう。まずは、京都市東山区の清水寺にある「北天の雄 阿弖流為(アテルイ)と母〓(モレ)之碑」。同寺の観光順路では音羽の滝を見終えての帰路にある。1994年、岩手県奥州市の有志が同寺の協力を得て建立したものだ。

 アテルイは蝦夷の指導者で、789年に胆沢(現・奥州市)での戦いで、大和朝廷の軍を大敗させている。その以前から朝廷側は蝦夷に苦戦を続けていた様子があり、上田氏は「蝦夷は強いのです」と書いている。アテルイは強い蝦夷のヒーローとして、地元では人気があるようだ。

 これを破ったのが、征夷大将軍として後世に名を残す坂上田村麻呂だ。その後に続く二つの戦いで勝利を収め、802年にはもう一人の敵将、モレとともにアテルイを平安京へ連れてくる。助命嘆願をしたものの、朝廷内の反対で2人は処刑されてしまう。清水寺は、賢心上人の教えに感銘を受けた田村麻呂が建立した寺だ。その縁から、アテルイらの碑が建った。

 田村麻呂ゆかりの他の場所も歩いてみよう。田村麻呂は、武具などとともに平安京の東に向けてひつぎを立てるようにして埋葬されたという。死後も平安京の守護をたくらされてのことで、国家危急時には塚が鳴動するという伝説もある。だが、その所在地はずっとわからなかった。

 近年の研究で、山科区の西野山古墓がその場所として有力となっているが、山の中で訪ねにくい。気軽に行けるのは、1895(明治28)年の平安遷都1100年祭にあたり、山科区勧修寺東栗栖野町の坂上田村麻呂公園にある墳墓だ。正しい場所かはさておき、明治時代になってもこれほどの墓が整備された田村麻呂の人気をうかがい知ることができる。

続きはソース
http://mainichi.jp/articles/20180111/ddl/k26/040/474000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1515855168/続きを読む

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1: しじみ ★ 2018/02/07(水) 04:48:44.22 ID:CAP_USER9
今年は「明治維新150年」を記念する行事が各地で開かれますが、この響きに違和感を持つ人もいます。
東北地方など、1868年に起きた戊辰戦争で新政府軍と戦って敗れた藩があった地域に住む人たちです。
特に戊辰戦争の激戦地だった旧会津藩では今も遺恨が残っているといわれています。

 旧会津藩の城下町、福島県会津若松市。市内には「維新」ではなく「戊辰150周年」ののぼりが立っています。
「維新より戊辰のウエートが大きい」。6代にわたり市内に住む小林輝雄さん(68)は街の雰囲気を語ります。
自身は戊辰戦争で敵対した旧長州藩の山口県にわだかまりはありません。
ただ政府軍に故郷が踏みにじられた話は祖母らから聞いています。小林さんは「当時を根に持つ人のことも理解できる」といいます。

 会津では少年兵「白虎隊」などを含め2500人以上の兵員が戦死したと伝えられています。
会津若松市の教育長を務めた宗像精さん(84)は「戦いに負けただけでなく、『賊軍』の汚名を長く着せられたのが問題だ」と今も憤慨しています。

 賊軍とは政府軍の「官軍」に対する呼び方です。日本思想史を研究する京都造形芸術大学の野口良平さん(50)は「新政府軍が内戦に勝つため用いた『官軍と賊軍』という区分けが、戊辰戦争後も教育などの場に用いられたのが遺恨の要因になった」と分析しています。

 遺恨は解きほぐせないのでしょうか。山口県萩市の内科医、山本貞寿さん(78)は昨年11月に宗像さんを萩市に呼んで講演してもらいました。
「会津人の本音を聞くことから始めたい」という思いからです。
宗像さんは講演で「史実を考慮すると仲直りはできない」と訴えました。
「会津の悲惨な歴史をなかったことにするだけでなく、(1600年の)関ケ原の戦いの雪辱を果たした長州人の思いにも背く」と考えたからです。

 それでも山本さんと宗像さんは「民間の交流を通じて仲良くすることはできる」という認識では一致しています。
実際、11年の東日本大震災後には萩市から会津若松市に義援金が届き、両市の高校が共同制作した歌を合唱したこともありました。

 1月22日、両市の関係者が驚く出来事がありました。山口県が地盤の安倍晋三首相が国会での施政方針演説で、会津出身で東京帝国大学の総長になった山川健次郎に触れたのです。山川は白虎隊の出身ながら明治政府に登用され、貧しい若者や女性の教育を後押ししました。

 「首相には『会津は賊軍でなかった』と明言してもらいたい」と宗像さんは期待します。
150周年の今年、雪解けは進むでしょうか。

続きはソースで

NIKKEI STYLE
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO26315670Q8A130C1EAC000
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1517946524/続きを読む

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1: ひろし ★ 2018/02/07(水) 23:58:05.87 ID:CAP_USER9
2月7日 23時38分

太平洋戦争末期、戦艦「大和」とともに沖縄に向かいアメリカ軍の攻撃によって沈んだ旧日本海軍の駆逐艦「磯風」と見られる艦船が鹿児島県沖の海底で見つかっていたことがわかりました。専門家は、大和以外の艦船の調査は行われておらず、貴重な発見だと評価しています。

駆逐艦「磯風」は昭和15年に就役して真珠湾攻撃やミッドウェー海戦などに参加しましたが、戦艦大和とともに特攻作戦で沖縄に向かっていた昭和20年4月7日、鹿児島県の枕崎沖でアメリカ軍の攻撃によって沈みました。

大和について広島県呉市とともに潜水調査を行った大阪市の海洋調査会社によりますと、おととし5月の調査の中で、大和が沈んだ場所から北東に9.5キロ、深さおよそ450メートルの海底で、艦船1隻が沈んでいるのが見つかったということです。
これについて専門家は、撮影された映像や戦闘の記録などから「磯風」の可能性が高いとしています。

映像には4つの砲身をもつ魚雷発射管のほか、爆発でめくれ上がった艦尾や横倒しになった主砲も映し出されていて、当時の戦闘の激しさがうかがえます。

旧日本海軍の歴史に詳しい広島県呉市の大和ミュージアムの戸高一成館長は、「記録に残る被害状況や沈没場所をつきあわせると磯風でほぼ間違いない。大和以外の艦船の調査は行われておらず貴重な発見だ」と話しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180207/k10011319951000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1518015485/続きを読む

20130309224008

1: 風吹けば名無し 2018/02/03(土) 02:18:16.62 ID:S/CjzOmB0
第一次世界大戦白人「うおおおおおお敵の要塞に突撃、突撃突撃ぃぃぃぃ!なに!塹壕で進めないだと!突撃しろぉぉぉぉ!」

なぜなのか
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1517591896/続きを読む

kankou_kiyomizudera

1: 名無しさん@涙目です。 2018/02/01(木) 21:02:40.96 ID:ACPHd4gO0● BE:259388547-2BP(2000)
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 京都は別称として洛陽と呼ばれることがある。洛陽はもともと中国にある都市だが、中国人は京都に来てどんな感想を持つのだろうか。中国メディアの今日頭条は27日、「日本に洛陽を盗まれた」とする記事を掲載し、中国人に対して、これを読んで皆深く反省するべきだと訴えた。

 桓武天皇の時代に建設された平安京だが、記事は、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」としたものの、右京は湿地帯であったためほどなく廃れ、
左京だけが残ったと紹介。その後、1000年以上も京都のことは洛陽と呼ばれてきたと伝えた。

 中国には現在でも河南省に洛陽市がある。かつては歴代9王朝が相次いで都を置いたことから、「九王朝の古都」と呼ばれるほど栄えたというが、今ではすっかりその面影はない。
記事は、中国では失われてしまったかつての洛陽が京都には残っており、絵で描いたように美しく「夢にまで見た唐」だと絶賛。
京都御所、醍醐寺、妙心寺、金閣寺、嵐山など多くの写真を掲載し、「1000年前の中国の古都が完ぺきに保存」されていると、感動をそのままに伝えた。

 また記事は、京都にはあちこちに「洛陽」という文字が刻まれているのを見ることができるとも紹介。学校の名前に洛陽が残っているほか、バスの名前は洛バスで、多くの商品名にも洛陽にちなんだ名前が付けられている。そのため、中国人は京都で「唐にタイムスリップ」したような感覚に襲われるという。

 記事は最後に、「我々は喜ぶべきか悲しむべきか」と複雑な心理をのぞかせて締めくくった。日本以上に歴史のある中国だが、その貴重な文化や建築物、伝統などの多くが失われてしまっているのは実に残念なことだ。本国では見られなくなった唐の名残を京都で見るというのは、多くの中国人にとって複雑な心境なのかもしれない。
(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1652654?page=1
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1517486560/続きを読む

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