(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

カテゴリ: 日本史

1: 樽悶 ★ 2018/11/22(木) 17:36:55.61 ID:CAP_USER9
仁徳天皇陵として宮内庁が管理する日本最大の前方後円墳・大山古墳=堺市(共同通信社ヘリから)
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 国内最大の前方後円墳で百舌鳥(もず)・古市古墳群の一つ、仁徳天皇陵(大山(だいせん)古墳、堺市堺区)を調査している宮内庁と堺市は22日、墳丘を囲む堤(つつみ)で1列に並んだ円筒埴輪(はにわ)や石敷きが見つかったと発表した。同古墳で円筒埴輪列が確認されたのは初めて。日本書紀などから仁徳天皇は4世紀末に死去したともいわれるが、埴輪は5世紀前半~中頃の特徴を持ち、数十年のずれがあるとの指摘もある。仁徳天皇陵では以前も同時代の埴輪が見つかっており、築造された時期や被葬者をめぐる議論が熱を帯びそうだ。

 古代の天皇や皇族の墓とされる「陵墓」を同庁が外部機関と共同発掘するのは初めて。

 墳丘を囲む2つの堤のうち、内側の第1堤の南側に調査区(幅2メートル、長さ30メートル)を3カ所設置。地表から20~40センチ掘り下げると、各調査区で直径約35センチの円筒埴輪4~5本が接するように並んでいた。いずれも基底部だけで、上部は割れて失われていた。

 今回の調査地の約100メートル西では昭和48年に同時代とみられる円筒埴輪1本が出土していた。このことを合わせて考えると、埴輪列が堤を1周するように約2.6キロにわたって7千本以上が立てられたと推定できるという。

 ただし、埴輪列があったのは堤の外縁部だけで、墳丘寄りの内縁部では確認されなかった。大型古墳では堤の両側に埴輪を並べるのが一般的。仁徳天皇陵では当初から内縁部に埴輪列がなかったか、墳丘を囲む周濠(しゅうごう)の水による浸食で埴輪列や堤の一部が崩落した可能性もあるという。

 一方、堤にはこぶし大の石が敷き詰められていた。堤で石敷きが確認されたのは、仁徳天皇陵がある百舌鳥古墳群では初めて。堤を荘厳に見せるためだったともみられる。

 同庁の徳田誠志(まさし)・陵墓調査官は「数年かけて堤全体を調査したい」としている。

産経新聞 2018.11.22 17:21
https://www.sankei.com/west/news/181122/wst1811220028-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542875815/続きを読む
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1: ごまカンパチ ★ 2018/11/17(土) 04:43:30.22 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_1114.html
弥生時代、女王・卑弥呼が治めた「邪馬台国」があったという説もある九州北部。
ことし8月、長崎県佐世保市の離島、高島で古代史の研究者を驚かせるものが発掘されました。
それは、下半身に比べ上半身が異常に太く、驚くほど“マッチョ”な体型をしていた弥生時代の人骨です。
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“マッチョ”な理由を探ってみると、古代人たちの知られざる営みが見えてきました。

■上半身だけ特別に発達した弥生人!
今回人の骨が見つかったのは、長崎県佐世保市の離島、高島にある弥生時代の宮ノ本遺跡です。
発掘に立ち会った人類学者の海部陽介さんは、初めて見たとき、驚きを隠せなかったといいます。
人類学者 海部陽介さん
「これは太い。上半身が頑丈でマッチョな感じがありますね」
一般的な弥生人の骨と比べ、異常に太く、しかも、上腕骨や鎖骨など上半身の骨が特別に発達した不思議な体型です。

■九州西北部の島からも
海部さんは、一般的な弥生人との違いを詳しく調べました。
一般的な弥生人の男性の平均身長が推定162.6センチで、ヒョロッとしていたのに対し、高島の弥生人は、それより4センチほど低いものの、筋骨隆々で、胸や腕、首などが異常に発達していたことがわかりました。
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しかもその体重は、推定でなんと77.2キロ!身長170センチ体重59キロの私よりも、実に18キロ重いのです。
詳しく調べると、こうしたマッチョ体型の弥生人の人骨は、高島以外にも、長崎県の平戸や五島、そして熊本県の天草など、九州西北部の複数の島から見つかっていたことがわかりました。
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■CTスキャンで分析すると
どうしてそんなマッチョ体型になったのか。海部さんは、筑波大学でスポーツ科学を研究する足立和隆准教授に骨の詳細な分析を依頼しました。
足立准教授が活用したのが、CTスキャン。骨の断面図を分析することで、どの筋肉をどう使っていたかを推測します。
その結果が次の画像です。
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左側が、現代人の男性、右側が高島のマッチョな弥生人の上腕骨の断面図です。
現代人の上腕骨の断面が丸っぽいのに対し、高島の弥生人の骨には、三角にとがったところがあるのが分かります。
足立准教授は、この突起が、腕や肩を動かす三角筋によって、上腕骨が強く引っ張られていた証拠だといいます。
強い負荷がかかると三角筋が太くなり、それに耐えられるように骨と接続している部分も太く変形します。
こうした突起が周囲3方向にできていたことから、腕をあらゆる方向に回したり引っ張ったりする動作を激しく繰り返していたのではないか。
足立准教授は、彼らが“舟のこぎ手”だったと推測しています。

■マッチョな弥生人が運んでいたのは?
「この集団は、“貝の交易”をやっていた、つまり貝の運び屋だったんじゃないか」(海部さん)
“貝の交易”とは何かを知るために、福岡県飯塚市にある飯塚市歴史資料館を訪ねました。
ここには、弥生時代の遺跡から発掘されたものが展示されています。
銅鏡や祭器などの宝物が数多く並ぶ中、ひときわ目立っていたのが白い腕輪です。
「貝輪」と呼ばれる装飾品で、当時の権力者が身につけていたとされています。
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この貝輪、弥生文化が花開いた佐賀や福岡など九州北部の各地で出土しています。
使われているのは「ゴホウラ」という巻き貝。九州近海ではなく、沖縄や奄美大島など南の海だけに生息しています。
1000km以上の距離を、誰がどうやって運んできたのか、これまで大きな謎でした。
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※ 続く
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1542397410/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/11/02(金) 01:18:04.54 ID:CAP_USER9
野村照一さん(右下の写真)の手記を手にする長女の中山征子さん(右)と夫の裕さん=京都府長岡京市で、国本ようこ撮影
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■兵士の苦難、草原一面に馬の死骸…

 第二次世界大戦直前の旧日本軍の大失敗の一つに挙げられる「ノモンハン事件」に動員され、宇治市で昨年5月に101歳で亡くなった野村照一さんの遺品から今月、過酷な従軍体験などを回想した手記が見つかった。遺品を整理した長女の中山征子(いくこ)さん(74)=長岡京市=は「父から戦争の話は聞いていたが、手記のことは知らなかった。華々しく戦ったというのではない、一兵卒から見た戦争が記されている」と話す。【国本ようこ】

 「運命の狭間で 命を拾った話」と題された手記は400字詰め原稿用紙37枚。幼少期から戦中・戦後まで6話で構成し、1989年10月に完成と記されている。

 野村さんは1916(大正5)年、福井県内の農家で10人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。尋常高等小学校高等科を28(昭和3)年に卒業後、京都市でハイヤーの運転手をしていた兄の下で働き、自動車の整備を覚えた。

 37(昭和12)年に志願して陸軍に入隊。金沢の輜重兵(しちょうへい)第九連隊に所属した後、39年6月に旧満州(現中国東北部)へ渡った。旧ソ連軍・モンゴル軍と日本軍が国境を巡り交戦していたノモンハン事件の戦線に回され、武器や弾薬を自動車で輸送する役割を担った。

 手記では「ソ連軍は数日のうちに補給を完了したのに、日本軍には補給力がなかったようだ」などと指摘。日本軍の歩兵が「たこ壺(つぼ)」と呼ばれた穴で敵の戦車を待ち、地雷を竹の棒の先につけて戦車の走行用ベルトに差し込んでいたことなどを記している。

 野村さんは250キロあったという基地間を自動車で移動したが、歩兵は夏の暑い草原を1週間かけて行軍。「落伍(らくご)兵が手を上げ、乗せてくれと拝む者もあって止まると、ワーッと押しかけて自動車のまわりに鈴なりになった」と描写し、末端の兵士の苦難をうかがわせる。

 また、不用意に戦場近くまで砲車をけん引させた何百頭もの馬が敵機に襲われ、草原一面に死骸が広がっていた光景を詳述。「馬のいない砲兵なんて鉄砲を持たない歩兵より始末が悪い。移動の手段を持たない重たい大砲なんて何の役にも立たない」「当時の軍上層部は近代戦に対する認識に全く欠けていた」と憤りを示している。

 その後の44年、野村さんは現在の中国湖南省で敵機の爆撃に合ったが、何かの破片が服の左襟を貫通。「もし喉を貫通していれば、即死か苦悶(くもん)の末に一命を落としていた」と振り返った。

■「父と再会した気持ち」

 野村照一さんの手記を見つけた長女の中山征子さんは、1944年9月に旧満州(現中国東北部)の東安省で生まれた。母ハナエさん(97)によると、戦地の野村さんから「しばらく戻れない。先に日本に帰っておくように」と連絡があったため同年12月に帰国。征子さんは「後の情勢を考えると、私も母も(中国残留孤児を描いた小説)『大地の子』になるところだった」と振り返る。

 もっとも、旧満州では戦況などの情報を得られる旧陸軍の将校や官僚、家族らは民間人を置き去りにして真っ先に逃げたとされる。ハナエさんが同じ旧陸軍の官舎に住んでいた家族たちに後に再会した際に聞いたところ、早期の引き揚げを促す具体的な情報はなかったが、「支給される物資が滞ったり、官舎にいた兵隊さんがいなくなったりと不穏な空気を感じたので帰ってきた」と言われたという。

 野村さんは46年6月に上海から帰国した後、府警に定年まで勤めた。遺品は手記の他、軍に届けた婚姻願や戦時中の国債など、たくさんの書類がきちょうめんに保存されていた。夫の裕さん(79)と共に整理した征子さんは「亡くなった後にまた父の軌跡がわかる手記が見つかりうれしい。改めて父と再会した気持ちです」と話した。【国本ようこ】

■ノモンハン事件

 1939年5~9月、旧満州(現中国東北部)に展開する日本の関東軍と、モンゴルの後ろ盾になっていた旧ソ連軍が満蒙国境で戦った紛争。当初は関東軍が優勢だったが、戦車など物量で勝るソ連軍の実力を関東軍が見誤り、旧式装備のまま壊滅的打撃を受けた。日本側の死傷者は約2万人、死傷率は75%とされ、旧日本軍の失敗の象徴の一つと評される。ただし、ソ連崩壊後に出た史料でソ連側の損害も膨大だったと指摘されている。

毎日新聞 2018年10月31日
https://mainichi.jp/articles/20181031/ddl/k26/040/391000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1541089084/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 18:49:05.87 ID:CAP_USER9
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 飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪府大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、その大きさや形容から古墳時代の大王クラスを葬った石棺とみられている。府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員が、巨石の特徴をもとに、さらに製作時期を絞り込み、被葬者に迫る説を打ち出した。仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子の弟の来目(くめ)皇子らが候補という。狭山池の巨石は、古墳から運び出した石棺を水路に転用したと考えられているが、古墳を特定する研究はほとんどないという。同館の特別展「王者のひつぎ」(11月25日まで)で紹介されている。(小畑三秋)

■改修工事で思わぬ発見

 狭山池は周囲約3・4キロで、川をせき止めたダム形式のため池としては国内最古。奈良時代の僧・行基(ぎょうき)や、東大寺再興で知られる鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん)らが大規模に改修した。

 巨石は、大正時代末~昭和初めと、昭和末~平成初めに行われた堤防の改修工事で計20点以上見つかった。多くが長方形で、最大のものは長さ2・6メートル、幅1・3メートル、高さ約1メートル。内部がくり抜かれ、遺体を納める石棺の本体とみられる。水路にするため、石棺の前と後ろの壁面を削り取って「U字溝」の形にして利用。家の屋根の形をした石材もあり、5~6世紀の古墳にみられる「家形石棺」とされている。

 重源の功績を記した鎌倉時代の文献には、「狭山池に石の樋を築いた」と記載。出土した巨石は、重源の時代に複数の古墳から掘り出されて水路に転用したとみられ、「狭山池石棺群」と呼ばれる。

 家形石棺は近畿の巨大古墳に多く「王者のひつぎ」と呼ばれる。西川さんは、狭山池では長さ2メートル以上の大型のものが半数以上あることに着目し、「大王クラスの古墳から掘り出された可能性が高い」と推測した。

 2メートル以上の家形石棺は、欽明天皇の墓ともいわれる巨大前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市、全長318メートル)、金銅製の冠など豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、直径50メートル)など天皇や皇子クラスの墓に多い。

■候補に聖徳太子の弟

 「博物館の見学者から、狭山池の石棺はどの古墳から運ばれてきたのか質問されることがあるが、研究がほとんどなく回答に困った」と西川さん。巨石は重さ1トン以上あり、遠方から運ぶのは困難とみて大王クラスの古墳が集中する百舌鳥(もず)・古市古墳群から候補を探した。

 石棺は、蓋石の形状から築造時期がある程度分かる。古いものは屋根上部の平坦面の幅が狭く、新しくなるにつれて広くなる傾向がある。

 大正~昭和初めに見つかった石棺の蓋石(長さ2・2メートル、幅1・4メートル)は、屋根の平坦面が広いことから6世紀末~7世紀初めと推定。狭山池から約5キロ北東にある陵墓の来目皇子墓(大阪府羽曳野市、一辺50メートル)は、市教委の調査で7世紀初めの築造とされ、603年に死去した来目皇子の墓の可能性が高く、狭山池出土の石棺と時期も合致するという。

 同古墳について江戸時代の文献では「石室はあるが石棺はない」と記され、西川さんは「狭山池近辺で7世紀初めの皇族クラスの古墳は来目皇子墓以外になく、ここから運び出されたのではないか」とする。

■国内最大級の石棺

 一方、昭和末~平成初めに発掘され、狭山池石棺群で最も大きい2つの石材についても詳細に検討。いずれも長さ2・4~2・6メートル、幅約1・3メートルで石棺本体部分とみられ、国内の石棺でも最大クラスになる。石の細かい材質や底部の加工した跡が共通しているとし、同じ古墳から運び出されたと判断した。

 そのうえで「巨大な石棺を2つも納めるには、相当大きな石室が必要」とし、約8キロ北にあり国内5番目の墳丘規模を誇る前方後円墳、河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市、335メートル)を候補に挙げる。

 この2つの石棺とほぼ同規模の石棺2つが実際の石室に置かれているのが、欽明天皇の墓ともいわれる奈良の丸山古墳だ。墳丘は河内大塚山古墳に次ぐ全国6番目の規模で、築造時期もほぼ同じ6世紀後半とされ、「狭山池の巨大な石棺を納めることができるのは、丸山古墳に匹敵する古墳。河内大塚山古墳以外に見当たらない」という。

 さらに、両古墳は密接な関係があったと指摘。日本書紀では、欽明天皇は死後、「古市」で葬送儀礼の一つ「もがり」が行われ、その後に飛鳥に葬られたと記述。「いったん河内大塚山古墳に埋葬されたが、丸山古墳に改葬されたのでは」と推測する。

(続きはソース)

産経新聞 2018.10.30 10:00
http://www.sankei.com/west/news/181030/wst1810300003-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540892945/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 22:06:52.39 ID:CAP_USER9
戦争時の将校らへの忍術指導について解説する山本さん(ハイトピア伊賀で)
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 三重大の忍者・忍術学講座が27日、三重県伊賀市のハイトピア伊賀で開かれ、NPO法人インテリジェンス研究所(東京)の理事長を務める早稲田大名誉教授(情報史)の山本武利さん(78)が、「陸軍中野学校のカリキュラムの中での『忍術』講義」と題して講演。「旧日本軍の戦局悪化で敵を効率よく倒す方法が求められ、防衛のための忍術は廃れた」などと解説した。

 山本さんは秘密組織だった諜報(ちょうほう)要員養成のための陸軍中野学校(東京)の授業内容の変遷と、教官を務めた甲賀流忍術の武術家・藤田西湖(1899~1966年)のかかわりについて紹介した。

 中野学校では、1938年(昭和13年)7月からの1期生18人を含め、45年(昭和20年)に廃止されるまで約2300人が学んだとされる。藤田は満州(現中国東北部)で将校に暗号解読など諜報技術を指導。中野学校では初期に、全国から集められた優秀な将校らに対し、学科や術科の正課ではなく、“特別授業”として忍術を教えた。

 山本さんは様々な史料を引用して実態を説明。藤田は「忍術の『忍』は、忍耐の『忍』だ」として、本来幼少時から長年の訓練を必要とする忍術の精神的、肉体的な技を、6か月で厳しく鍛えた――などと述べた。

 さらに、「スパイの第一歩は真実による偽装。運転手、電気技術、僧侶など、完全になりきれる職業を二つ以上持つように――」と指導した藤田の言葉を伝えた。

 山本さんは「忍術は国内の諜報活動には有効だが、戦況が厳しくなると講義から忍びの体術がなくなり、科学技術が増え、『忍術』とは呼べなくなった」と指摘。42年(昭和17年)にはもう「忍術」の講義はなく、結局、藤田が中野学校で教えたのは初期だけで、2年間で100人足らずだったという。

 講演後、山本さんは「忍術はソフトな諜報活動で、戦地からより激しい破壊・殺傷方法を求められ、応えられなくなった。しかし現代では、忍術の少なくとも精神的な教えは再評価されていいのでは」と語った。(吉田誠一)

読売新聞 2018年10月29日 08時18分
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20181027-OYT1T50139.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540904812/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/10/29(月) 22:54:12.90 ID:CAP_USER9
歴史ブームの流れ
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 過去の出来事を調べて考察する学問である歴史学や考古学。近年、それが一般の人たちの間に広がりをみせています。歴史好きの女性を意味する「歴女」や、土偶好きの「土偶女子」、古墳好きの「コフニスト」。でも、専門の研究が進むにつれて、今までの歴史像も大きく変わり始めていて――。受け止めかねる人も出てきているようです。

■ゲームと連動する人気

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■塾・美術館… 好き高じて設立

※省略

■広がるイメージ 学説と別

 ただ、このように歴史を純粋に「楽しむ」傾向が強まっていることに関しては、苦言を呈する専門家もいます。「歴史小説や大河ドラマなどで描かれた、根拠がはっきりしない『通説』がまかり通り、イメージだけで歴史が語られるケースが多すぎる」とある研究者。

 維新史が専門の青山忠正・佛教大教授は「例えば幕末の志士・坂本龍馬は、一次史料からは『薩長同盟の仲介者』というより、『薩摩藩の利害を代弁するエージェント』で、薩長同盟も倒幕軍事同盟とまでは言えないのに、歴史ファンという人たちの中には、かたくなに信じようとしない人もいる」と指摘します。

 実際、近年の歴史研究の進展はめざましく、かつて歴史小説や教科書などで示された多くの出来事や歴史上の人物に、従来の通説とは違った新たな光があてられています。

 例えば、織田信長は全国統一は目指さず、畿内の静謐(せいひつ)を願っていたとする東京大史料編纂(へんさん)所の金子拓(ひらく)准教授の説や、豊臣秀吉の朝鮮出兵は領土拡大が主目的ではなく、アジアに進出してきたスペイン・ポルトガル勢力を追い払うためだったとする平川新(あらた)・宮城学院女子大学長の説、美少年のイメージが強い江戸時代の一揆指導者・天草四郎は架空の存在だったという吉村豊雄・熊本大名誉教授の説などが代表的なものです。

 青山教授は「歴史ファンにとって歴史とは小説などで形づくられた、型どおりのお話をなぞるものであり、真実を知るものではないのでしょう。歴史好きのいう『歴史』と歴史学とは別物、ということなのかもしれません」と語ります。

■新説や異説 受け入れ難い?

 同じようなことは考古学でも起きています。今年は「縄文ブーム」と言われていますが、ネット上などで語られることが多い「自然と共生するエコロジカルな縄文人」というイメージについて、縄文時代が専門の国立歴史民俗博物館の山田康弘教授は「大きな誤解がある」と指摘します。

 「縄文人は樹木の伐採などでかなりの自然破壊をしていました。それがひどくならなかったのは単に人口が少なかったから。エコロジカルを目指していたわけではないんです」

 こうした新説や解釈に対しては、時として思わぬ反応も起きます。朝日新聞が昨年9月、幕末に活躍した長州(現在の山口県)の志士・吉田松陰について、「本質は教育者というより革命家ではないか」という説を紹介したところ、地元の萩市議会である市議から萩市長に対し、「松陰先生のイメージにデメリットを与えた、朝日新聞に抗議をしないのか」との質問が出され、市長は「松陰が過激な革命家であったという評価、異説の存在を紹介したもの。一つの視点として尊重するべきだ」と答えました。この出来事は、研究者による学説であっても、地元にとって重要な人物に関わる場合、受け入れ難い面もあることを示しています。

 他方、近年様々な新説が提示され、評価も変化している坂本龍馬の生誕地・高知市にある市立龍馬の生まれたまち記念館の森本琢磨学芸員は「龍馬は高知にとって大切な人物」としながらも、「観光とのからみを大事にしつつ、できる限り新説も紹介したい」と話してくれました。

 NHKの大河ドラマ「平清盛」の歴史考証にも携わった東京大史料編纂所の本郷和人教授は、中世の町や人物などを描いて、「画面が汚い」と兵庫県知事から批判された経験があります。「でも、実際に中世の町は糞尿(ふんにょう)まみれだったのだから仕方ない」と本郷さん。「専門性のある新しい学説を受け入れるには、論文や専門書を読むなどの勉強が必要。従来のイメージに固執するのではなく、新しい歴史像を学ぶ楽しさも知ってほしいと思うのですが」

(続きはソース)

朝日新聞デジタル 2018年10月29日09時30分
https://www.asahi.com/articles/ASLBR51RCLBRULZU00D.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540821252/続きを読む
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1: 樽悶 ★ 2018/10/31(水) 23:28:07.29 ID:CAP_USER9
21歳の二等兵時代の田中角栄
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前から4列目、右から6番目が田中角栄
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 新潟の貧農から総理大臣へと成り上がった田中角栄は、やがてロッキード事件などのスキャンダルに塗れ波瀾万丈の人生を終えた(1993年没、75歳)。その生涯は近年の“再評価ブーム”の中で様々な視点から伝えられてきたが、誰もが知るその歴史に「空白の2年間」がある。徴兵で満州に動員されていた時期について、角栄は生前ほとんど語らなかったという。当時の秘話が、ある写真とともに明らかになる。

◆「満州の写真を持っている」

※省略

◆アンパンを盗みに来た

 惠美子さんに話を聞いた。

「1か月ほど前に、新聞を読んでいたら、『戦場の田中角栄』の広告が出ていたんです。そこに『ノモンハン戦』の文字があったので、すぐに娘に書店に買いに行かせて、一晩で一気に読み切りました。父は生前、酔うたびに、満州にいた頃の田中角栄さんの話をしていましたが、本当だったんだなと思いました」

 そして1枚の写真を取りだした。およそ100人くらいの日本兵が写ったセピア色の集合写真。そのなかの一人に小さな丸印がついている。

「この人が角栄さんです。父が写真に書き込んでしまったんです(笑い)」(前出・惠美子さん)

 この写真は、ノモンハン事件(*)停戦後の昭和14年10月25日に、日本軍の前線基地・ハイラル(現・中国内モンゴル自治区)で撮影されたものだという。この時、角栄は21歳だった。

【*1939年5~9月にかけて、満蒙国境で起きた日ソの軍事衝突。日本軍は壊滅的な被害を受け停戦に至った】

「父は終戦1年後に帰国しましたが、引き揚げる間もこの写真を肌身離さず隠し持ち、戦後も押し入れに大切にしまい、家族以外には見せようとしませんでした。一緒に写っている多くの戦友が戦地で亡くなられたからだったのでしょう」(前出・惠美子さん)

 生きて終戦を迎えた戦友も、すでに80年近く経っているので、今や存命者は少ない。惠美子さんは、むしろ供養になると思い、公開を決意したという。

 小野澤冨士氏は大正7年、群馬県に生まれた。幼い頃から馬に乗り慣れていたので、昭和14年1月に徴兵されたときに宇都宮騎兵第18連隊に配属された。その後、満州国富錦にあった陸軍第3旅団騎兵第23連隊に転属している。

 一方の角栄も同じ大正7年生まれ。父親が競馬馬の育成に入れ込んでいたためやはり乗馬が得意で、徴兵により、昭和14年4月に満州国富錦の騎兵第24連隊に入隊した。

 小野澤氏があとから同じ内務班に配属されて合流する形になったが、すでに実戦経験のあった小野澤氏は伍長、角栄は二等兵という立場だった。

『戦場の田中角栄』には、満州での角栄は決して模範兵ではなく、こっそり夜中に仲間と酒盛りをしたり、立哨をサボったりで、曹長や伍長ら上官からしょっちゅう殴られていたと書かれている。

「父の話では、要領がよくて、憎めない人だったそうです。調子がいいんだけど、まっすぐな青年だったと。『夜中にアンパンを盗みに来てみつかったときも、オレがかばってやった』『オレは田中を一度もぶったことがねえ』というのが、酔ったときの父の口癖でしたね」(惠美子さん)

 角栄はいつも鼻歌を歌い、人を笑わせる話をして、隊では人気者だったという。

 当時はノモンハン事件の激戦のさなかで、部隊では古兵から順に前線に送られていた。日本軍は、航空戦では優位に立っていたが、地上戦ではソ連軍に大きな劣勢を強いられていた。そんななかでも飄々としている角栄を上官らが苦々しく思ったのは容易に想像がつくが、なぜか小野澤氏は角栄をいたく気に入ったようなのだ。

 角栄は調子がいいだけの男ではなかった。

 部隊の教育計画書が連隊本部から突き返され、2日で修正と清書をしなければならなくなったときに、切羽詰まった中隊長は、建築家の角栄に頼み込んだ。角栄は上官らをアゴで使いながら1日で仕上げ、窮地を救ったというエピソードが『戦場の田中角栄』に紹介されている。この一件で、上官らの角栄に対する態度が一変したという。

 角栄は結局、ノモンハン戦線に送られることなく、昭和14年9月16日、ソ連軍との停戦が成立。命拾いしたが、その後15年11月、角栄は営庭で突然倒れた。クルップ性肺炎と診断され、内地に送還。戦病兵として除隊となった。

(続きはソース)

2018.10.31 07:00
https://www.news-postseven.com/archives/20181031_790999.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540996087/続きを読む
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