(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/06/09(金) 13:00:14.39 ID:CAP_USER9
京都市中京区新町蛸薬師北西角の発掘調査で、鎌倉時代末-室町時代初頭とみられる地下室(室(むろ))が見つかった。
床は平らな石で固められており、有力な商人が設けた可能性がある。

室町時代以降に捨てられた灰やごみから土器や陶磁器片をはじめ、魚や動物の骨が多数出土。
研究者らは「中世の商人の食生活など暮らしぶりを知る上で貴重だ」と注目している。

民間調査会社「京都平安文化財」が3~5月に調査した。
室は南北2・1メートル、東西5・4メートルで、14世紀ごろに造られたとみられる。

床に直径約20センチの石を並べ、その周囲に小石を敷き詰め、排水用の穴も設けられていた。
市文化財保護課は「中世の室は土の床が多く、これほど丁寧に石で整地した室は珍しい」としている。

室は壊され埋められており、その上に灰や炭などが何層も重なっていた。ごみ捨て場になったとみられ、鎌倉-室町時代の土器や輸入物を含む陶磁器の破片、貨幣のほか、食べられたとみられる魚や動物の骨などが大量に含まれていた。

調査地が面する町尻小路(新町通)は、中世の下京で経済中心地の一つだった
。周辺の六角町では、琵琶湖の魚の専売特権を持つ集団「粟津橋本供御人(くごにん)」が店を出していたことが知られている。

奈良大の河内将芳教授(日本中世史)は「当時は魚屋以外にも多様な店が軒を連ねていたはず。
室を備えた何らかの大規模な店があった」と推測する。
高価な中国の陶磁器片が出土しており、「有力な商人たちの経済活動を裏付けられる」と期待する。

見つかった骨には、ハモやサワラ、ブリなど海で捕れる魚のほか、犬やウサギなどの動物、ツルかコウノトリとみられる大型の鳥などが含まれていた。

東海大の丸山真史講師(動物考古学)は「京都中心部の食生活の変遷を知る上でも貴重な発見だ」と注目する。

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170609000061

出土した魚や動物などの骨。鎌倉-室町時代の人々の幅広い食生活がうかがえる
20170609113301hakkutusita
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496980814/続きを読む
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1: 紅あずま ★ 2017/06/07(水) 08:27:20.30 ID:CAP_USER9
特攻隊員、最後に機内で食べた菓子…老舗が再現
読売新聞:2017年06月07日 07時49分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170607-OYT1T50021.html

20170607-OYT1I50005-N
再現された菓子

 太平洋戦争中、海軍鹿屋航空基地が置かれた鹿児島県鹿屋市にある菓子店「富久屋(ふくや)」が、特攻隊員向けに作っていた「タルト」と呼ばれる菓子を再現した。

 貴重だった砂糖を使い、出撃前の隊員に渡されていたという。
毎年、追悼行事を営む女将(おかみ)の北村馨さん(77)は、「国や家族を思って亡くなった若者たちを思い出し、平和の尊さを考えるきっかけになれば」と話している。

 富久屋は1860年頃に創業した老舗。
海軍から支給された砂糖などを原料に菓子を作って基地に納めており、「海軍御用達 若松菓子店」の看板を掲げていた。

 店に遊びに来る隊員も多く、幼かった北村さんを妹のようにかわいがってくれた。
親しい隊員の出撃日には、屋根の上から空を見上げた。
別れを告げるように低空飛行で旋回し、白いマフラーをなびかせる姿を今も覚えているという。

 昨秋に親族が集まった際、隊員が機内で食べるための菓子を店で作っていたことを初めて聞いた。
基地で働いていた11歳年上の姉も、出撃前の隊員たちが菓子をポケットに入れていた様子を思い出した。
こうした話を聞き、「彼らが最後に口にした菓子を遺族にも味わってほしい」と考えた。

 レシピや資料が残っていなかったため、姉や店で働いていた人から味や形などを聞いた。
当時、店で用意できた材料からレシピを推測。
今年2月頃から、職人らと試作を重ね、小麦粉と卵、砂糖などを混ぜて焼き上げたスポンジ生地に、小豆あんを挟んだ菓子を完成させた。
空の上でも片手で食べられるようにと、細長く切り、1本ずつパラフィン紙で包んでいた点も再現した。

 4月上旬、北村さんら有志が16年前から鹿屋市主催の慰霊祭に合わせて営んでいる追悼行事で、参加した遺族に配ったところ、「最後の瞬間にひもじい思いをしていなかったようで安心した」との声を聞いた。

 売り物にする予定はなかったが、戦争について多くの人に考えてもらうきっかけになればと、5月から1本180円で販売を始めた。
売り上げの一部は、追悼行事の資金にするという。

 北村さんは、店で菓子を作る時、特攻隊員がどんな思いで食べたのかを想像すると涙があふれるという。
「今の人には物足りない味かもしれないが、彼らにとっては、一瞬でもつらい気持ちが和らいだはず。多くの若者が最後の時間を過ごした鹿屋だからこそ、戦争の記憶をつなぐ責任があると思っています」と話した。

 ◆海軍鹿屋航空基地=1936年に設置された。
同基地での特攻作戦は45年3~6月に行われ、908人の特攻隊員が零式艦上戦闘機(零戦)などで出撃し亡くなった。
隊員の年齢は16~35歳だった。
敷地は現在、海上自衛隊鹿屋航空基地となっている。

20170607-OYT1I50004-N 
「海軍御用達」の看板を掲げていた頃の店の写真(富久屋提供)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496791640/続きを読む
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1: ののの ★ 2017/06/06(火) 21:02:43.96 ID:CAP_USER9
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/
2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496750563/続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/06/05(月) 09:12:01.07 ID:CAP_USER9
戦前の1935(昭和10)年に、沖縄で大阪朝日新聞(当時)の記者が撮ったネガ277コマが見つかった。
市場や漁、農作業など、人々の暮らしぶりが写し取られている。
太平洋戦争末期の沖縄戦で、戦前の沖縄の写真の多くは焼失しており、専門家は「大変貴重な資料」と評価する。

朝日新聞大阪本社の倉庫内で眠っていたネガを、社員が偶然見つけた。
デジタル化し、傷やカビを修復。82年前の沖縄が鮮やかによみがえった。

撮影したのは大阪朝日新聞のカメラマン藤本護氏(46年、40歳で死去)。
社会部記者の守山義雄氏(64年、53歳で死去)とともに沖縄を訪れ、糸満や名護の漁業などを取材した。
大阪朝日新聞に、35年7月に連載「海洋ニッポン」が10回掲載されており、写真の一部も載っている。

見つかったネガには、漁業の様子だけでなく、にぎわう那覇の市場や、古謝(こじゃ)(現・沖縄市)のサトウキビ作り、軌道馬車や人力車などの移動手段を含む当時の生活の様子が記録されていた。

写真については、記事の相互提供や人材交流などをしている地元紙・沖縄タイムスとの共同企画とし、朝日新聞から沖縄タイムスに写真を提供。
沖縄タイムスの取材により、多くの撮影場所が特定され、当時の様子が詳しくわかった。(吉田拓史)

《日本写真著作権協会長、田沼武能(たけよし)さん(88)の話》 
沖縄の人が撮った戦前の写真は戦災で多くが失われている。
写真家の木村伊兵衛も撮っているが、東京の工房が戦火に遭い、残っているのは36枚フィルムが20本ほど。
300枚近い写真が見つかったのは非常に珍しい。
背景や衣服といった「時代」がしっかり写し込まれていて、当時を知る記録としてとても貴重だ。
http://news.livedoor.com/article/detail/13157783/

戦前に現在の那覇市東町にあった「那覇ウフマチ(大市)」と呼ばれた市場の様子
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那覇―糸満間の約9キロを走った「軌道馬車」。
レール上を走るのが特徴で、沿線に住んでいた豊見城市渡橋名の高良健二さん(87)は「大人のジョギング、子どものかけっこ程度の速さだった」と語る
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舟の上で捕れた魚を笑顔でかかげる糸満の漁師
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芋入りのバーキ(竹かご)を二段重ねにして頭に載せた女性たちが集まる、当時の市場。
左の女性たちの奥に水場があり、家の並びや奧に海が見えることから現在の糸満市糸満の町端区、通称「西新地ン門(にしみーじんじょー)」の街道側とみられる。
野菜だけでなく、魚などをバーキに入れ、頭に載せた女性の行商を「カミアチネー」と呼ぶ。
糸満市糸満では「カミアキネー」。若い人は糸満から徒歩や交通機関を使って那覇の市場に運んで売った。
行商とはいえ固定客もおり、生家がほぼ毎日、カミアチネーから魚や豆腐を買う得意客だったという糸満市潮平の金城信子さん(87)は
「糸満でハーレー(船こぎレース)があるユッカヌヒー(旧暦5月4日)には行商に来ていた女性の家に招かれて、ごちそうになった」と振り返る
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496621521/続きを読む
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1: trick ★ 2017/06/03(土) 20:17:12.33 ID:CAP_USER9
 日本人が操縦する「零戦」が3日、東京湾の上空を飛んだ――。千葉市美浜区で開かれている「レッドブル・エアレース千葉2017」で、零戦が会場上空を3周し、観客を魅了した。4日も飛行する予定。

 パイロットを務めたのは米国在住で、操縦士歴40年の柳田一昭さん(66)。操縦を終え、飛行場に戻ってきた柳田さんは「感無量。東京湾の上はとても気持ち良かった」と話した。

 機体は、1942年に三菱重工が製造した「零式艦上戦闘機22型」。約10年かけて「零戦里帰りプロジェクト」を進めてきた実業家の石塚政秀さん(56)が所有している。石塚さんによると現在、飛行可能な零戦は世界に4機という。

 石塚さんは「日本の技術遺産として飛行できる状態で保存し、日本各地で飛ばすことで平和を考える機会になれば」と話している。(竹谷俊之)


日本人操縦の零戦、東京湾で里帰り飛行 エアレースで:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASK6152GTK61UEHF008.html

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496488632/続きを読む
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1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/05/31(水) 17:49:06.61 ID:nrIvGV8s
イギリス「ロシアが戦艦を入手しないように自国で買い取るンゴ」
イギリス「日本に大金貸すンゴ」
イギリス「バルチック艦隊が補給を受けられないようにするンゴ」
イギリス「フランスが参戦しないようにするンゴ」
日本「はえ~サンクス」

イギリス「金剛型戦艦派遣してクレメンス」
日本「嫌だよ あと陸軍も派遣せんからな」
日本「あと戦争中とか関係あらへん わいらに鉄よこせや」
日本「ついでにドイツと密貿易したろw!」

日英同盟解消
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1496220546/続きを読む
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1: コモドドラゴン ★ 2017/05/31(水) 09:34:11.35 ID:CAP_USER9
 戦時中の戦艦大和の様子をバーチャルリアリティー(VR)技術を使って再現することに、広島県立福山工業高(福山市)の生徒が取り組んでいる。今夏にも完成し、大和ミュージアム(同県呉市)などで体験できる予定。

 「ドーン」。砲弾の重低音が響いた。専用ゴーグルを装着すると、そこは大和の甲板上。黒煙が消え、巨大な主砲が姿を見せた。方向を変えると、海が見えたり違う角度の大和が現れる。VRはコンピューターで加工した映像や音、震動によって、仮想の世界を実際に見ているように追体験できる技術だ。

 同校は、戦争によって失われた遺産を再現する取り組みを続けている。昨年11月から体験型の作品の制作を開始した。

 大和の乗組員から聞き取ったり同ミュージアムの模型を調べ、主砲のサイズや菊の紋章など当時の様子を詳細に作り上げた。同校3年の平田翼さん(17)は「新しい技術で映像をリアルに体験できる。戦争の悲惨さをたくさんの人に伝えたい」と意気込みを話した。

2017.5.31 08:33 産経新聞
http://www.sankei.com/smp/west/news/170531/wst1705310022-s1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496190851/続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/05/29(月) 23:19:51.21 ID:CAP_USER9
旧日本軍の司令部に学徒動員され、広島市に原爆が投下された直後、「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と第一報を軍に伝えたとされる、岡ヨシエさんが、悪性リンパ腫のため亡くなりました。86歳でした。

岡ヨシエさんは昭和20年、高等女学校の3年生だった14歳のときに、広島城にあった旧日本軍の司令部に連絡係として学徒動員され、原爆が投下された直後に「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と電話で第一報を軍に伝えたとされます。

自身も原爆の後遺症に苦しみ、被爆した元教師などで作る会に所属して、当時の体験や平和への願いを訴える証言活動を長年にわたって続けてきました。

去年5月にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問する直前には、原爆の被害を語り継ぐ会に参加し、「罪のない市民がどんな苦しみを受けたのか、しっかり見てもらいたい」と発言していました。

親族によりますと、岡さんは悪性リンパ腫のため、ことし3月に入院して治療を受けていましたが、今月19日に亡くなったということです。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170529/k10010999531000.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496067591/続きを読む
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