(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 日本史

1: ガーディス ★ 2018/04/06(金) 18:22:36.58 ID:CAP_USER9
熊本大学永青文庫研究センターの後藤典子 特別研究員と稲葉継陽センター長らは、永青文庫資料等の史料研究により、江戸時代初期の鎖国完成直前、小倉藩細川家当主 細川忠利が純国産の葡萄酒(ワイン)を製造させていただけでなく、アヘンの製造も試みていたことを明らかした。

 これまで、日本国内で国産ワインの醸造が本格的に始まるのは開国後、つまり、1870年代に入ってからと考えられてきた。しかし、それより200年以上さかのぼる1627年に細川忠利が「ぶだうしゆ(葡萄酒)」を製造させていたことが同研究者らの研究によって2016年に明らかになった。とはいえ、それがブドウを主成分に漬けた果実酒なのか、アルコール発酵させた醸造酒なのか、また目的や製造期間等まで明らかになっていなかった。

 そこで今回、後藤研究員は永青文庫資料を中心に葡萄酒に関する資料を詳細に調査。製造された葡萄酒が山ブドウ(がらみ)をアルコールに漬けた果実酒(混成酒)ではなく、アルコール発酵させた醸造酒=ワインであることが明らかになった。また、同時期に、鎮静や鎮痛、咳止め、催眠などの薬用として用いられたアヘンの製造も行っていたこともわかった。

 今回の研究により、江戸幕府によるキリシタン禁止令など鎖国政策が進められる一方で、舶来物が重用され、細川家が幕府に配慮しながらも積極的に輸入や製造に関わっていた様子がわかった。

 熊本大学附属図書館は、「永青文庫細川家資料」(約58,000点)や細川家の筆頭家老の文書「松井家文書」(約 37,000 点)、家臣家や庄屋層の文書群計10万点あまりを寄託・所蔵。永青文庫研究センターではこれらの資料群について調査分析を行っている。

http://univ-journal.jp/20126/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1523006556/続きを読む

1: 風吹けば名無し 2018/04/04(水) 06:34:04.89 ID:QVcqS7Kpd0404
米外交誌が選ぶ「最低の空母」5隻に大日本帝国海軍の「加賀」

米外交誌が選ぶ「最低の空母」5隻に、第二次大戦の日本の空母「加賀」が選出された。
3月31日付の米外交誌ナショナル・インタレスト(電子版)は「史上最低の5隻の空母」と題する記事の冒頭で、「空母建造は難事業だ。世界の強力な海軍の多くが、他の船を空母に改造する方式で、少しの成功と多くの失敗を重ねてきた」と指摘した。

その上で、中国が最近、初の国産空母を進水させたこと、日本で海上自衛隊のいずも型ヘリ護衛艦を空母化する案が浮上していることなどを紹介。「世界の空母建設における重大な失敗のいくつかを検討する価値がある」とし、その代表例として、イギリス海軍のイーグル、フランスのベアルン、大日本帝国海軍の加賀、米国のレンジャー、ソビエト連邦で建造されたアドミラル・クズネツォフを挙げた。

加賀建造当時の日本については「戦艦を空母に改造することの限界を十分に理解していた」とし、「当初は、巡洋戦艦として建造中だった『天城』と『赤城』の空母化を計画していた。だが不幸にも、関東大震災で天城が破損したため、未完成の戦艦・加賀での代用を余儀なくされた」とした。

その上で、加賀について「1930年代半ばの改造で、奇妙な煙突の配置などいくつかの問題点が解消された。だが潜在的かつ重大なダメージコントロールの脆弱性は残された」と指摘。

また、「速力は第一航空戦隊の他艦に劣っていた」とし、最終的に、排水量3万8000トン、速力28ノット、搭載機数72機に設定されたことを紹介した。
http://www.recordchina.co.jp/b588964-s0-c10.html

「最低の空母」5隻
・イギリス海軍 イーグル
・フランス ベアルン
・大日本帝国海軍 加賀
・米国 レンジャー
・ソビエト連邦 アドミラル・クズネツォフ
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1522791244/続きを読む

1: キリストの復活は近い ★ 2018/03/24(土) 13:38:12.97 ID:CAP_USER9
日本という国はいつ誕生したのか-。このテーマの議論は、研究者の間では「七五三論争」と呼ばれている。

「邪馬台国の女王、卑弥呼が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれているからだ。

国内初の本格的な都、藤原宮(奈良県橿原市)や大宝律令という法律が整備された7世紀こそ「日本国成立」ともいわれるが、邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた。(小畑三秋)

 ■「女王の都するところ」

 「飛鳥時代が国家の始まりともいわれるが、決してそうではない。日本国がいきなりできたのではなく、卑弥呼の時代には原型ができていた」と指摘するのが、纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長だ。
 寺沢さんは邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)を調査し、弥生時代から古墳時代への変遷など、国家形成について研究している。

 同遺跡には、卑弥呼の墓説が根強い箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)をはじめ、国内最古級の前方後円墳が集中し、邪馬台国論争の舞台だ。

遺跡中心部のJR桜井線・巻向駅近くで平成21年、東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の大型建物跡(南北19メートル、東西12メートル)など4棟が見つかった。
卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、邪馬台国中枢部の可能性が一気に高まった。

 ■「邪馬台国、女王の都するところなり」

 魏志倭人伝は、卑弥呼のいた場所についてこう記している。
 「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、そうではない。邪馬台国を含む倭国全体の女王。居住していたのが邪馬台国」と寺沢さん。
そのうえで、「纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政を行い、倭国の首都だった」と指摘する。

 纒向遺跡では、約2700個もの桃の種、香辛料に使われるバジル、ベニバナの花粉も出土。ベニバナは古代エジプトではミイラを巻いた布、中国でも染料として使われた。桃は、仙人が暮らす中国の理想の地「桃源郷」を連想させる。バラエティーに富む発掘成果は、中国との外交を通じてシルクロード文化を積極的に取り入れていたことを物語る。

  ■外交に長けた女王

 「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬を与える」。魏志倭人伝は、239年に卑弥呼が中国・魏に使者を送り、魏の皇帝が卑弥呼を親魏倭王に任命し金印を授けたと記す。今から1800年近く前、決して対等ではなかったが、日本と中国で外交関係が築かれていたことがうかがえる。

卑弥呼は、倭国の統治に中国の威光を頼ろうとした。当時は三国志で知られる魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の王・曹操や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。卑弥呼が外交相手に選んだのは、中でも優位にあった魏だった。

 「卑弥呼の政権は、東アジア情勢を敏感に察知しながら中国と外交を展開した」と寺沢さんは話す。

 ■男子の王で戦乱

 倭人伝は、卑弥呼誕生の経緯についても詳しく述べている。
「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と記載。
寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。

 そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら「日本」と名乗るようになった。
太陽が昇る「日出する国」「日の本(ひのもと)の国」として、中国をはじめとした東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。

http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1521866292/続きを読む

1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/03/24(土) 21:14:19.05 ID:CAP_USER9
航空機産業や宇宙開発の歴史を紹介する岐阜県各務原市の「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」が24日、リニューアルオープンした。航空機の実機や惑星探査機の実物大模型など国内最多となる計43機が展示され、航空と宇宙の博物館としては国内最大規模。

太平洋戦争中に同市で造られた旧日本軍の戦闘機「飛燕」の実機や、ゼロ戦の試作機「十二試艦上戦闘機」の実物大模型が展示の目玉。国際宇宙ステーション(ISS)の日本実験棟「きぼう」の実物大模型では内部もリアルに再現した。

平成8年に各務原市にできた博物館が老朽化し、客足も落ち込んでいたため一時休館して改装。展示面積は従来の1・7倍の約9400平方メートルとなり、年間50万人の来館を目指す。

リニューアルを記念する式典で、博物館のアンバサダーを務める宇宙飛行士の山崎直子さんは「この博物館には先人たちの空への挑戦の足取りが刻まれている。産業や教育の拠点となれるよう取り組んでいきたい」とあいさつした。

家族で訪れた愛知県小牧市の小学5年、成瀬太遥君(11)は「日本に1機しかない『飛燕』をこんなに近くで見られるなんて。スリムできれいな形だった」と笑顔で話した。
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産経WEST 2018.3.24 12:45
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240048-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1521893659/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/03/24(土) 14:06:29.90 ID:CAP_USER
 大阪府茨木市の弥生時代の集落遺跡の中河原(なかがわら)遺跡で、弥生時代中期(約2千年前)とみられる切り妻(づま)屋根の高床建物5棟が描かれた土器片がみつかった。
茨木市教育委員会が23日発表した。同じ構造と明瞭にわかる建物群が表現されている弥生絵画の発見は全国で初めて。
専門家は弥生時代の集落の姿や、当時の祭祀(さいし)のあり方を探る重要な資料として注目する。

 市教委によれば、2016年11月から約1年間にわたる調査で、建物が表現された土器片9点が出土した。
破片を接合すると縦21・5センチ、横25・5センチ。大小5棟の高床建物はいずれも切り妻屋根で、神社の屋根の上に突き出た「千木(ちぎ)」のような棟飾りを持ち、数本の長い柱が屋根を支える構造だ。
中央の建物は一回り小さく、その周りに両端が張り出した屋根を支える棟持(むなもち)柱を持つ建物や、はしごの架かった建物が並んでいる。

 5棟以上の建物が描かれた弥生絵画の土器は、奈良県橿原市の中曽司(なかぞし)遺跡と福岡県筑前町の大木(おおき)遺跡からの出土例があるが、建物の構造がはっきりとはわからない。
一方、今回のように切り妻屋根の高床建物と鮮明にわかる弥生絵画は他にないという。

 辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「収穫した稲籾(もみ)を入れた土器を一番小さな建物に納め、来季の豊作を祈ったのでは」。

 黒崎直(ただし)・大阪府立弥生文化博物館長(考古学)は「同じ弥生中期の大集落跡で知られる、大阪府の池上曽根(いけがみそね)遺跡でみつかった棟持柱の建物は神殿と推定され、この絵画も棟持柱の建物が中心的な建物ではないか。集落の日常の姿を詳細に描いたのだろう」とみる。

高床建物5棟が表現された土器片(絵を白線で示した。白線は合成処理)
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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q5T1TL3QPPTB00M.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1521867989/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/03/24(土) 01:44:19.30 ID:CAP_USER9
平安京で最大級の貴族邸宅とみられる平安時代前期(9世紀前半)の大型建物跡がみつかっていた京都市中京区の島津製作所三条工場内で、さらに1棟の大型建物跡が出土した。京都市埋蔵文化財研究所が23日発表した。「齋」と記された墨書土器もみつかり、専門家は、京都三大祭りの一つ、葵祭(あおいまつり)のヒロイン役のモデルとされ、古代には伊勢神宮や賀茂神社に仕えた未婚の皇女「斎王(さいおう)(斎宮(さいくう)、斎院(さいいん))」の住まいだった可能性を指摘する。

 研究所によれば、現場は桓武天皇(在位781~806年)が造営した平安京の右京三条三坊五町にあたり、昨夏までの調査で東西21メートル、南北9メートルの大型建物跡を確認。その後の調査で、約12メートル北側から新たに東西14メートル、南北8・5メートルの大型建物跡が出土した。いずれも古い建物から建て替えられたとみられ、南北方向に大型建物2棟が並ぶ平安京で最大規模の邸宅だった可能性が強まっている。

 これまでの一連の調査で、敷地面積が1町(ちょう、約120メートル四方)規模だったとみられ、研究所は、現在の閣僚クラスにあたる「三位(さんみ)」以上の高級貴族の邸宅だったと推定する。調査地内の南東でも過去の調査で大型建物跡が2棟みつかり、1町内に二つの大型建物の区画を持つ邸宅は平安京内では初めてとされる。

 一方、調査地東側の溝から「政所(まんどころ)」と書かれた須恵器の鉢や、「齋」と墨書された灰釉(かいゆう)陶器の皿が出土。敷地内で住まいと事務棟が使い分けられていたとみられる。近くの別の調査地からは「斎宮」と墨書された土器の出土例もある。

 斎王とは飛鳥時代から天皇に代… 残り:320文字/全文:1017文字

今回みつかった北側の大型建物跡
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「齋」の字が書かれた墨書土器
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地図
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2018年3月23日23時34分
朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASL3Q62HRL3QPLZB018.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1521823459/続きを読む

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