(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: 孤高の旅人 ★ 2017/12/08(金) 08:56:09.52 ID:CAP_USER9
大石りくの書状発見
2017年12月08日
http://sp.yomiuri.co.jp/local/hyogo/news/20171207-OYTNT50216.html

◇三男も 親戚に次女結婚報告

 忠臣蔵で知られる大石内蔵助の妻・りくと三男の代三郎(大三郎)の書状各1通が、豊岡市城崎町で見つかった。吉良邸討ち入りの後、主家・浅野宗家が治めた広島藩から弘前(青森県)の親戚に宛てた手紙で、2通とも次女・るりの結婚などについて記している。りくの書状は全国で10点前後しか残っておらず、貴重という。
 書状は、城崎温泉街で土産物店を経営する森貞淳一さん(73)が所有。約10年前に購入した古文書の処分を考えていた際に見つけ、市立歴史博物館職員の石原由美子さんに今夏、画像を送って解読を依頼した。石原さんや赤穂大石神社(赤穂市)の学芸員が調べたところ、差出人は「大いし代三郎母」、「大石代三郎」と記されており、字体の特徴などからともに直筆と判断した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1512690969/続きを読む
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1: ハンバーグタイカレー ★ 2017/11/28(火) 18:30:30.98 ID:CAP_USER9
https://this.kiji.is/308123063693165665

 江戸時代に全国を測量し、精密な地図を作製した伊能忠敬(1745~1818年)の足跡をたどるスマートフォンアプリ「伊能でGo」が配信中だ。伊能率いる測量隊が宿泊した3千地点以上が地図上に示され、ユーザーはスタンプラリー形式で巡ることができる。開発元は「偉業を肌で感じてほしい」と話す。

 伊能は1800年から16年にかけ、弟子らを伴って北海道から鹿児島までを測量。9度にわたる遠征の行程や作業内容、宿泊地などを細かく日記に残している。

 アプリは日記に書かれた宿泊場所を“チェックポイント”として地図上に表示。スマホの衛星利用測位システム(GPS)を利用して、ユーザーが宿泊地の半径500メートル以内に近づくと、スタンプが押せる。周辺を散策して宿場の面影を探したり、街並みの変化を感じたりするのも楽しい。

 それぞれの宿泊地には滞在日数に応じてポイントが割り振られていて、会員登録した人の間でランキングを競うことができる。アプリから接続できるインターネット上のマイページでスタンプ帳を作成、印刷すれば、旅の記念にも。

 開発した「InoPedia(イノペディア)をつくる会」の渡辺一郎会長は、全国各地に伝わる測量隊の記録を集める活動もしている。「大勢の人にアプリを利用してもらうことで、新たな記録の掘り起こしにつながれば」と期待を込めた。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1511861430/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/11/23(木) 16:04:53.03 ID:CAP_USER9
分骨式の法要で祈りをささげる武庸会の会員ら=22日、東京・泉岳寺
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 新発田出身で赤穂四十七士の一人・堀部安兵衛(1670-1703年)が22日、新発田市に「里帰り」した。同市の「武庸会(たけつねかい)」が四十七士の眠る東京・泉岳寺で分骨式を行い、安兵衛の墓から土を譲り受けた。墓の建碑式は26日、新発田市の長徳寺で行う。

 泉岳寺によると、四十七士の分骨をするのは初めて。墓前で営まれた法要で同寺の牟田賢明さんは「300年余り堀部安兵衛さんと義士の方をご供養、お守りさせていただいたが、新発田でも長く安兵衛さんを一緒にお守りいただきたい」とあいさつし、武庸会の嶋谷次郎八会長(76)は「新発田でも安兵衛をしっかりと守ります」と応じた。

 一行は一人ずつ焼香した後、安兵衛の墓から土を掘り起こして15センチ四方の大きさのきり箱に納め、祈りをささげた。「帰郷前に安兵衛を思い出の地に連れて行こう」と都内の安兵衛ゆかりの地も巡った。果たし合いで助太刀し、名を上げた高田馬場や、安兵衛の石碑がある神社などを訪れた。

 武庸会では設立100周年を迎えた2013年から新発田に墓を建てる機運が高まり、17年7月から父親の菩提寺の長徳寺境内に建てる準備を始めた。9月には安兵衛ら赤穂四十七士の遺髪が納められている兵庫県赤穂市の花岳寺から髪を埋葬された場所の土を譲り受けた。

 嶋谷会長は「やっと安兵衛の骨をいただくことができ、長年の念願がかなった」と涙ながらに話した。

配信2017/11/23 13:00
新潟日報
http://www.niigata-nippo.co.jp/sp/news/local/20171123359036.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1511420693/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/11/18(土) 16:42:10.11 ID:CAP_USER9
新潟県上越地域では昔からサメを食べる習慣があり、特に山間部では正月料理の煮こごりや煮付け、フライなどとして食べられている。庶民の身近な魚として親しまれているが、いつ頃から食べられているのだろうか──。上越地域のサメ食文化をテーマに上越市所有の古文書などを展示した同市公文書センター出前展示会「資料から探る上越地域のサメ食の起源」が高田図書館(同市本城町)で開かれている。資料調査を担当した同センターの武石勉センター長に聞いた。

江戸中期にはサメ漁の記録

越後のサメ漁や利用法について記した最古の資料は、江戸時代中期の1756年(宝暦6)に寺泊の漢方医、丸山元純が記した「越後名寄なよせ」で、越後の百科事典ともいわれている。この書物には、真鱶鮫まふかざめが訛なまってモウカザメとなったとされる大型のサメのネズミザメを指す「?ふか」について、頸城郡山之下(「西浜」と呼ばれた鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸)でよく獲れると記されている。この地域の地形は西頸城丘陵が海岸線に迫り、海岸は急激に深くなっていることから、大型のサメが生息する外洋まで短時間で達することができ、サメ漁の地理的条件に恵まれていたと見られている。

油を採取するための漁

「越後名寄」には、小型のサメのアブラツノザメ(ボウザメ)を指す「鮫魚さめ」の肉について「臭いはあるものの肉そのものは美味しい」とあり、山椒やみそなどを付けた焼き物、からしや酢みそで味付けしたなます、煮物、すしなどの調理法が紹介されている。一方で、サメの肉は貧しい人々の食べ物とされ、食用以外の利用法として、肝臓は油をとり行灯などの燃料に、皮は刀の鞘の表装や漢方薬の原料、ヤスリにすると記されている。

江戸時代の怪談話に登場する妖怪の「化け猫」が行灯の油を舐めるのは、高価な菜種油ではなく安価なサメなどの魚から取れた油を使っていたためと考えられている。

食用は水揚げ増と飢饉がきっかけ?

江戸幕府は俵物たわらものと呼ばれるフカヒレ、干しアワビ、乾燥ナマコの煎海鼠いりこの3品の清への輸出を奨励。江戸後期の1833年(天保4)には、増産のため漁に励むことや水揚げした3品はすべて幕府請負人に売り渡すことなどを厳命した。これによって大型のサメの水揚げが増え、ヒレや肝臓を取り除いた魚肉が市場に出回るようになった。

1889年(明治22)、旧高田藩士の庄田直道は「越後頸城郡誌稿 物産一巻」に『此?鮫ノ如キ、文化・文政ノ頃迄、当郡ニテ食スルモノ稀ナリ(フカザメは文化・文政の頃まで、この地域で食べる者はめったにいなかった)』と記している。このことから、文化・文政年間(1804~30)までは上越地域では大型のサメはほとんど食べられていなかったが、水揚げが増えた天保年間(1830?44)から食べることが一般的になったと、武石センター長は解釈している。

「越後頸城郡誌稿 物産一巻」(上越市公文書センター所蔵)「西浜」とは鳥ヶ首岬以西の旧西頸城郡の海岸
サメ1

武石センター長は「サメ漁は従来は油をとるために行われていた。天保年間は大飢饉で多くの餓死者が出ている。資料はないが、食べ物に困りそれまであまり食べていなかったサメを食べるようになったとも考えられる」と話す。

サメは年取り魚

サメは水揚げされると体内の尿素が分解され、アンモニアが生成される。このため独特の臭みがある反面、アンモニアが雑菌の繁殖を防いで腐りにくくなり、特に冬場は生魚のままでもある程度の日持ちがする。冷蔵技術が未発達の時代、山間部に暮らす人々にとって、サメは塩漬けや干物ではない魚を味わえる貴重品だった。サメが年取り魚としてハレの日の正月料理に欠かせなくなったのは、このような理由も考えられるという。

上越市の魚市場で年末にはサメの競りが恒例となっている
https://www.joetsutj.com/storage/3,57740b13e733

高田図書館で詳細な歴史資料を展示中 展示期間は12月28日まで

高田図書館1階ホールで開催中の出前展示会では、前述の「越後名寄」「越後頸城郡誌稿 物産一巻」のほか、サメ漁についての江戸幕府の触書、明治から大正にかけての正月のサメ食に関する新聞資料など、同市が所蔵する歴史資料6点を展示している。

配信2017年11月17日 (金) 18:48
上越タウンジャーナル
https://www.joetsutj.com/articles/04096800
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1510990930/続きを読む
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1: 名無しさん@涙目です。 2017/11/13(月) 13:15:26.06 ID:Y4j8Rjzi0 BE:306759112-BRZ(11000) ポイント特典
sssp://img.5ch.net/ico/kita1.gif
 3万7千人が蜂起した日本最大の農民一揆「島原・天草の乱」を率い、カリスマ的な指導力を発揮したといわれる天草四郎。
しかし近年、そうした人物が本当にいたのか、乱の実態は農民主体だったのか、などの疑問が提起されている。

天草四郎は実在しなかった? 落城後、届けられた首多数
http://www.asahi.com/articles/ASKC83F1KKC8ULZU005.html
AS20171109004062_comm
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1510546526/続きを読む
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1: 風吹けば名無し 2017/11/12(日) 02:51:06.37 ID:zmjD3oC20
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http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1510422666/続きを読む

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1: 風吹けば名無し 2017/11/05(日) 22:04:49.84 ID:zsGnGgZZ0
周り「ようやった!それでこそ武士や!」

考えてみれば頭おかしいな
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1509887089/続きを読む
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1: (^ェ^) ★ 2017/10/24(火) 18:23:21.37 ID:CAP_USER9
http://www.asahi.com/articles/ASK9Q55KYK9QTLZU001.html

 志賀島(しかのしま、福岡市)から見つかった国宝「金印」。はるか2千年ほど前、弥生時代の日本と中国の国際交流を裏付ける物証として有名だ。ところがこの金印、後世のニセモノでは、との声が後を絶たず、今も真贋(しんがん)論争が続行中なのだ。

 まばゆく光る金印は印面2センチ余り四方で、手のひらにすっぽり収まる小ささ。ヘビを模した鈕(ちゅう、つまみ)を持ち、「漢委奴国王」の5文字が刻まれる。

 江戸時代に志賀島で水田の溝の修理中に出土したとされ、福岡藩の碩学(せきがく)、亀井南冥(なんめい)が中国の古印だと断じて以来、これこそ『後漢書』が、建武中元2(紀元57)年にやって来た「倭奴国」の使いに皇帝が与えたと記録する金印だ、との見方が定着。中国出土の「広陵王璽(こうりょうおうじ)」印との類似が説かれ、国宝金印と同じヘビのつまみの「滇王之印(てんおうのいん)」が中国で見つかるに及んで、当時倭(わ)と呼ばれた日本の、福岡平野あたりにあったとされる奴国の王が入手した実物に違いない、との見解が定説となった。

 世界の中心を自負した古代中国は、周辺諸勢力に主従関係を結ぶ証しとして印章を与えた。ラクダやヘビなど動物をかたどったつまみの形は、各勢力や民族が住む風土を表すともいう。金印のヘビも温暖湿潤な日本列島にふさわしいというわけだ。

■はっきりしない出土状況

 ところがこの金印、謎が多い。通説の「漢の委(倭)の奴国」との読み方さえ、「奴国」でなく「委奴国」と続けるべきで別のクニだとの異論がある。

 弱点は出土状況がはっきりしな…
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1508837001/続きを読む
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