(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: 記憶たどり。 ★ 2017/06/15(木) 13:05:53.10 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00010000-saga-l41

年老いた顔、牙から真っ赤な舌

佐賀に人魚伝説? 佐賀市本庄町の東光寺に、年老いた「人魚」を描いたとみられる謎の掛け軸がある。胸から下は魚、肩口までうろこをまとったその姿は、確かに人魚。
笑っているのか、むき出しになった牙の隙間から真っ赤な舌がのぞき、目を見開いて振り返る様子は、見る人が声を上げるほど、おどろおどろしい。

いつ誰が何のために?全てが謎

「いつ誰が何のために描いたものか、全てが謎」と住職の三浦祥善さん(68)。
絵に落款はなく、裏側は白紙で日付も作者の名前もない。

東光寺は佐賀藩祖・鍋島直茂の父清房の代まで祖先供養する氏仏(うじぼとけ)として崇敬され、その後も直茂が薬師堂や厨子(ずし)を建造するなど、鍋島家とゆかりが深い。

掛け軸にまつわる言い伝えは一切なく、「現在の建物に寺を移した1953年には
既にあったと記憶している」という。三浦さんの祖母が「人魚(にんぎょ)の魚(ぎょ)」と呼んでいたため、今もその名前を使っている。

不気味な容姿

かつては絵が見えにくいほど表面が黒ずんでいた。20年ほど前に「どう描かれているのかよく見てみたい」とクリーニングで汚れを取り除いたところ、舌の鮮やかな赤色が現れ、「不気味な容姿にあらためてびっくりした」という。

掛け軸を見て泣き出すことも

寺を訪れた子どもが掛け軸を見て泣き出すこともあったため、普段は飾らず床の間にしまっている。三浦さんは「見る勇気のある方は、ぜひご連絡を」と話す。


人魚の老婆が描かれた掛け軸=佐賀市本庄町の東光寺
20170615-00010000-saga-001-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497499553/続きを読む
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1: チンしたモヤシ ★  2017/06/16(金) 05:48:04.95 ID:CAP_USER9
6月16日は「和菓子の日」。さかのぼること平安時代……その由縁と歴史について
あの吉田松陰も大好物だった……といわれる「大福」
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tenki.jpサプリ 記事(更新 2017/6/15 16:30)
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017061500078.html


6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
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http://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2017/06/image-11-900x491.jpeg
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071

梅雨らしい空模様が続くと外出が億劫になりますが、そんな日に自宅で過ごす楽しみといえば「菓子、アイス、スイーツを食べること」という方も少なくないと思います。特に見た目がかわいらしいケーキや和菓子は、天気に関係なく(笑)、ひと時の幸せをもたらしてくれますよね!
そんな折、明日6月16日が「和菓子の日」であることをご存じですか? 実はこの「和菓子の日」は、古くから“いわれ”のある記念日なのです。それにしても、なぜ6月16日が「和菓子の日」なのでしょう? 和菓子にまつわるトリビアも交えつつ、早速ご紹介していきましょう。

●「嘉祥の日」が「和菓子の日」に

だいぶ古い話になりますが、遡ること約1170年前の平安時代(848年/承和15年・嘉祥元年)。
仁明(にんみょう)天皇が「6月16日に“16”にちなんだ菓子などを神前に供えるように」という神のお告げに従ったことが「和菓子の日」のそもそものはじまり、といわれています。そして、仁明天皇はこのお告げをきっかけに、「めでたい」という意味がある「嘉祥(かしょう)」に元号をあらためたそう。神のお告げによって元号があらたまる……なんて現代では考えられないことですが、平安時代の時代性がうかがえるエピソードでもありますね。
鎌倉時代になると、時の天皇が6月16日に16枚の通貨と同価値の菓子を神前に供えるようになりました。さらに、室町時代には6月16日が「嘉祥の日」となり、天皇にお祝いの菓子を献上していたと『御湯殿上日記』に記されています。安土桃山時代には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を行っていましたし、江戸時代には6月16日に大名や旗本を江戸城の大広間に集めて、時の将軍から菓子が配られました。その際に用意された菓子は約2万個!にものぼり、儀式は「嘉祥頂戴」と呼ばれました。
庶民にも嘉祥の習わしは広まり、十六文(もしくは米一升六合)で買った菓子を食べていたのだとか。さらに、6月16日の夜に、16歳の子の振袖をおとして詰め袖にする「嘉祥縫」という風習もありました。他にも、6月16日に収穫した梅で作った梅干しを「嘉祥の梅」と呼び、旅立ちの日に食べることで旅の無事を祈ってもいました。
平安時代に始まった「嘉祥の日」の習わしは、災難を逃れ、健康を招く恒例行事として明治時代まで続きます。その後、昭和54(1979)年に一度忘れられた「嘉祥の日」を復活させるべく、全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」としたのです。

つづく >>2-5
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497559684/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2017/06/13(火)10:47:57 ID:WD4
10~12代あたりが将軍と時代共々ちーとも思い出せん
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1: 砂漠のマスカレード ★ 2017/03/22(水) 21:45:12.95 ID:CAP_USER9
キスしている最中、ふとこう思ったことありませんか? あ?、こんなキモチいいことパパやママ、祖父母、先祖代々やってきたのだな、と。
はるか昔から脈々と人類が唇を重ね合わせてきたと思えば、なんだか胸が熱くなりますよね。
キス万歳! というわけで、今回は大学で歴史学を専攻していた筆者が知られざるキスの歴史をお伝えしましょう。 
遅くとも平安時代にキス文化があった?

キスの起源については諸説ありますが、わが国・日本ではいつごろからキスの文化が存在していたかというと、平安時代までさかのぼります。

平安文学として有名な紀貫之の『土佐日記物語』や作者不詳の『今昔物語』などに男女のキスにまつわる記述があるのです。

『今昔物語』では妻の遺体にキスを?

『今昔物語』には、大江定基という男が、病死した妻の亡骸と添い寝して、夜な夜なキスしていたというエピソードがあります。

しだいに妻の口から死臭がするようになったため、泣く泣く妻を葬送して、自分は出家してしまったのだとか。

シチュエーションを想像するとロマンチックというよりホラーですが、はるか昔にこんなラブストーリーもあったのですね。

あの戦国大名が実はキス魔だった?

大河ドラマ『真田丸』にて、堺雅人さん演じる幸村と、長澤まさみさん演じる“きり”との口吸い(キス)シーンが話題になったのは記憶に新しいところ。

このキスシーンは、堺雅人さんの発案で台本に追加されたものだそうで、史実通りかどうかは明らかではありません。

ただ、同時代の人物である豊臣秀吉については、“口吸い”にまつわる資料が残っています。

チューしたくて悶々……

秀吉が幼い息子・秀頼に送った手紙に、「俺の留守中に誰にも口吸いさせるなよ、俺が帰ったら口吸いさせろよ」という内容の記述があります。

一見すると、子煩悩なパパですが、実はこの手紙、側室の淀君に読ませるためのものだったのでは、という説が……。

ちなみに、当時の秀吉はすでにアラカン(還暦)で淀君とは30歳ほどの年齢差があったといわれています。

功名を立てた大人物が若い女にメロメロになり、キスに気もそぞろ……。現代でも似たような事例がよくありますよね。

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0322/men_170322_9015816461.html
Menjoy![メンジョイ]3月22日(水)20時0分
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1490186712/ 続きを読む
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1: しじみ ★ 2017/03/13(月) 07:48:28.75 ID:CAP_USER9
「甲賀五人」の子孫

 渡辺俊経さん79

 先祖は尾張徳川家に仕えた忍びで、「甲賀五人」の1人として年に1度、尾張藩で鉄砲の撃ち方などを武士に指南した渡辺善右衛門。
普段は、地元で農作業などをして暮らしていたことが、自宅の蔵から見つかった古文書でわかった。

 忍者の実態は、今も謎に包まれているが、先祖が「古文書に書き残していたことに誇りを感じる」と喜ぶ。
実は、先祖が忍者であり、家に古文書が残されていることは、両親からも一切聞かされていなかったという。

 2000年に忍者研究などをしている団体のメンバーとの会合で、「渡辺善右衛門について教えてほしい」と尋ねられた。
10歳の頃、祖母から「善右衛門」という名を受け継ぐはずだったことや、約200年前の火事でも蔵だけが焼けずに残った、という話を聞かされたのを思い出した。

 蔵にあるたんすの引き出しを探すと、約150もの古文書が出てきた。
見つけた当初は古文書の崩し字が読めず、10年かけて勉強した。

 歴史学者の磯田道史さんらに見てもらうと、徳川家に仕えた時の機密保持を誓った「起請文きしょうもん」のほか、鉄砲指南役として甲賀から先祖を含む5人が召し抱えられたり、火薬や薬を調合したりしていたことなどが記載されたものもあった。
「江戸時代は平穏なため、農業をしながら年に1度出向くだけで給金がもらえた」という。

 古文書は昨春頃から、甲賀市教委に渡して解読を依頼しており、成果は、本にして残すように準備を進めている。
紛失や火事などで失う恐れがあるため、全てを市教委に寄託する予定で、貴重な地域の遺産として保存することを願う。

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20170313-OYTNT50011.html?from=tw
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1489358908/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/03/04(土) 16:56:19.85 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-nishinpc-soci

「武器じゃないか?」「金の宝だろう?」-

江戸時代の蘭学者で医師の緒方洪庵(1810~63)も何に使うか分からず、“謎の物体”とされてきた物の正体が160年後の現代、大分県日田市の咸宜園教育研究センターの職員の手で明らかになった。
それはろうそくの火を消すための道具「キャンドルスナッファー」。センターで開催中の企画展「廣瀬旭荘・敬四郎文庫」で公開中だ。

センターによると、物体は洪庵の友人で日田出身の漢詩人・儒学者、広瀬旭荘(きょくそう)(1807~63)の子孫宅から2012年に見つかった。
金属製で全長18・5センチ、幅3センチ。先端は箱型で、はさみのように開閉できる仕組み。
この物体について記述した旭荘の日記の一部と、スケッチも一緒に見つかった。日記は1842(天保13)年から53(嘉永6)年の間に書かれたとみられる。

日記によると、物体は6月26日、旭荘が拠点にしていた大坂(大阪府)で、漁の網に掛かっているのを発見。
「色は黒くてかすかに赤く漆で染めたような感じ」といい、「西洋のものではないか」と考えた旭荘は、友人に尋ねるが 「戦に使う道具ではないか」という人や「元は金(きん)だろう」という人がいて答えは出ない。
物体にはオランダ語に似た文字が彫られていたため旭荘は友人の洪庵にも見せるが回答は「不識」。結局正体は分からなかった。

突き止めたのはセンターの学芸担当、溝田直己さん(35)。旭荘関連の資料を
調査中だった2014年、旅行先でチェコの画家の作品展を観賞。作品の一つに
よく似たものが描かれているのに気が付き、それがキャンドルスナッファーと
分かった。
「一体何なのか見当も付かなかったので、絵を見たときは衝撃だった。できるなら旭荘さんにも教えてあげたかった」と溝田さん。
企画展は入館無料で31日まで。

キャンドルスナッファーを手にする溝田直己さん
20170304-00010000-nishinpc-000-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1488614179/続きを読む
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1: ニカワ ★ 2017/02/01(水) 05:21:05.54 ID:CAP_USER9
子供がいないことを理由にした離縁状(群馬県立文書館提供)
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 江戸時代、子供がいないことを理由に夫が妻に渡した「三行半(みくだりはん)」(離縁状)が、三行半研究の第一人者の群馬県太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長、高木侃(ただし)さん(75)の調査で初めて見つかった。三行半は離縁理由を記載しない例が多く、高木さんは「極めて貴重な史料だ」と驚いている。

 この三行半は安政5(1858)年7月、道之助がおげんに宛てたもの。文中「未ダ一子もこれなく(中略)今般利(離)縁致候」と記載されている。

 高木さんの研究によると、江戸時代の離縁状は離縁する理由を書いていないものが最も多く、次いで、現代の一身上の都合に当たる「我等勝手」など抽象的表現にとどまっているのが一般的。親権の所在が記載されているケースはまれにあるという。

 この三行半は高木さんが調査中に太田市内の旧家で偶然見つけたもので、群馬県立文書館(前橋市)に寄託された。

 高木さんはこれまで、約1300通の三行半を調査している。

 「夫がよほど、子供を欲しかったのかもしれない」と話している。

http://www.sankei.com/life/news/170129/lif1701290011-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1485894065/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/01/30(月) 04:44:11.23 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170129-00000019-san-l24

俳人・松尾芭蕉(1644~1694)の愛好家や忍者ファンならずとも広く知られた芭蕉忍者説を考える講演会「芭蕉忍者説の傾向と対策」が28日、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。
三重大の吉丸雄哉准教授(日本近世文学)が、説の起源や信憑性を解説した。

芭蕉忍者説には、芭蕉が伊賀の無足人(準士分の上層農民)で伊賀者(=忍者)として藤堂藩に雇われていたとする説や、芭蕉が歩いた「奧の細道」の足跡は忍者と思えるような健脚ぶりを示し、東北諸藩の情勢を幕府が芭蕉に探らせる裏の目的があったといった説がある。

吉丸准教授はこうした説に対し、「芭蕉は無足人の流れをくむが、父の代ではすでに農民で伊賀者とは無関係」「歩く速度は当時の健脚な日本人と変わらない」と指摘。「芭蕉は早くから神格化され逸話の多い人物だが、忍術を使った話が残っていない」とも話し、忍者説を裏付ける痕跡は存在しないと強調した。ただ、「奧の細道」に同行した弟子の曾良(そら)の忍者説については「蓋然性がある」とした。

また、芭蕉忍者説の起源として、作家の松本清張氏と考古学者の樋口清之氏が共同執筆した『東京の旅』(昭和41年)で特定の秘密任務を帯びた忍者として推測されていることを挙げ、推理小説家、斎藤栄氏の『奧の細道殺人事件』(同45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(同63年~平成元年)などによって広く定着していく過程を明らかにした。

吉丸准教授は「芭蕉忍者説は証明できない幽霊のような存在。芭蕉は偉大な俳人、世界に誇る詩人であり、忍者をセットにして評価を高めようとするのはおせっかい」と話した。

講演は、三重大人文学部と上野商工会議所が企画した「忍者・忍術学講座」の第4回で市民ら約90人が聴講。第5回は2月18日午前10時半に同じ会場で、中部大人文学部の岡本聡教授が「芭蕉のネットワークと藤堂家」をテーマに話す。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1485719051/ 続きを読む
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