(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: みつを ★ 2018/08/14(火) 18:47:19.06 ID:CAP_USER9
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8B4HSGL8BPLBJ001.html?ref=tw_asahi

江戸時代の食生活の変化、書物の紙に混ざった毛髪で判明
野中良祐
2018年8月14日18時5分

 江戸時代の書物の紙に含まれていた毛髪を分析したところ、当時の庶民の食生活が見えてきた――。そんな研究結果を14日、龍谷大などの研究チームが発表した。時代が進むにつれて、海産魚をよく食べるようになったことなどが、元素の分析から推定されるという。

 龍谷大の丸山敦准教授(生態学)によると、江戸時代の都市では出版ブームが起こり、たくさんの書籍が発刊された。大量の紙が必要なことから、古紙の回収や再生紙づくりも盛んになり、この過程で毛髪が紙に埋め込まれた。これらの毛髪は、たまたま混入した可能性のほか、耐久性を上げるための材料として、意図的に混ぜられたとする説もあるという。

 チームは、江戸時代に作られた書物から、130サンプルの毛髪を採取。炭素や窒素の同位体の割合を分析し、食生活を調べた。

 その結果、1700年以降の200年間に、海産魚を食べる割合が徐々に増加していったことが裏付けられた。漁業技術が発達し、ニシンなどの漁獲量が増えたことが背景とみられる。
 地域別にみると、江戸では、ヒエやアワなどの雑穀を食べる割合が比較的多かった。「江戸患い」と呼ばれた脚気が流行したため、ビタミンを含む雑穀を食べる健康法が広まっていた可能性があるという。

 丸山さんは「今後、飢饉(ききん)などの大きな出来事の前後で食生活が変わったかどうかについても、詳細に調べたい」と話している。(野中良祐)
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1: 自治郎 ★ 2018/08/04(土) 22:42:25.97 ID:CAP_USER9
 長野県の諏訪市博物館に寄贈された300年前の押し花・押し葉が、国立科学博物館の調査の結果、採集年月日や場所が分かるものとしては日本最古であることがわかった。

 諏訪市博物館によると、採集者は江戸中期の高島藩士、渋江民右衛門古伴(ひさとも)。昨年10月に渋江家の子孫から寄贈を受けた。サクラやウメ、トチノキ、マツ、クスノキなど25点あり、うち13点は現在の関西で採集されたものだという。

 採集時期は、明確なもので1719(享保4)年~24(同9)年。後にドイツの医師、シーボルトが日本の押し葉標本を多数持ち帰るが、今回確認されたものはそれより100年も古い。諏訪市博物館は「地元のものはなく、藩の活動で遠くに行った折に採集していたようだ。採集目的を知りたいところだが、それは分かっていない」としている。(依光隆明)

2018年8月4日21時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL84313ZL84UOOB003.html

日本最古と判明した押し花・押し葉の一部
AS20180804002320_comm
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1: 記憶たどり。 ★ 2018/07/31(火) 10:43:12.99 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180731-00000025-mai-soci

徳川将軍家の駕籠(かご)が福井県小浜市の曹洞宗「発心寺(ほっしんじ)」で見つかった。
31日発表した県によると、3代将軍家光(1604~51年)の駕籠で、側近の小浜藩主、酒井忠勝(1587~1662年)が初めて若狭国入りした際に贈ったとされる。初代家康を除き将軍用の駕籠は現存せず、専門家は「大変な驚きで、近世交通史の貴重な資料だ」と話している。

駕籠は箱状の座席に担ぎ棒を渡した乗り物で、明治期に人力車が普及するまでは広く利用された。
家光が贈ったとされる駕籠は、廃藩前の明治初期に小浜城から買い受けた商人が発心寺に寄贈した。
寺の老朽化に伴う解体工事で昨年12月に見つかり、県立若狭歴史博物館などが調査していた。

見つかった駕籠は、座席部分が長さ118センチ、幅86センチ、高さ102センチ。竹やヒノキの薄板を編み込む「網代(あじろ)」の手法を施す外観は質素だが、内側は焦げ茶のビロードが貼られ、格子部分をスライドして開閉できる夢想窓が細工されている。両端の金具に徳川家の三つ葉葵(あおい)紋がある黒漆塗りの担ぎ棒は現存する最長の497センチで、上部が丸みを帯びる。

酒井忠勝は家光からの信任が厚く、晩年は大老に就いて将軍家を支えた。1634年に若狭国入りした際には家光から馬も受けたとされ、駕籠からは主従の強い結びつきがうかがえる。将軍家の駕籠は家康の3丁が残るだけで、東京都江戸東京博物館の斎藤慎一学芸員(中世史)は「内外装の仕様は武家社会での身分を示しており、階層性を示す貴重な資料だ」と話している。

駕籠は幕末期の1860年、当時の小浜藩主だった酒井忠義(1813~73年)が京都御所を訪問する際にも利用しており、県立若狭歴史博物館は開催中の「幕末明治福井150年博」で8月1日から特別公開する。
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1: 自治郎 ★ 2018/07/26(木) 21:29:57.03 ID:CAP_USER9
 江戸最大の遊郭があった吉原(東京都台東区)の全景を収めた1枚の写真がみつかった。明治時代半ばごろに撮影されたとみられ、専門家は、1911(明治44)年に全焼する前の吉原の街の全貌(ぜんぼう)をとらえた貴重な写真として注目する。

 縦10・2センチ、横14・6センチ。絵はがきの前身としてつくられた鶏卵紙を使った写真だ。今年6月、インターネットのオークションに出品されていたのを、都内在住の収集家、浅田正春さんが入手した。

 台紙の裏面には、「東都吉原」「浅草公園地早取写真師」「江崎礼二製」などと記されていた。1883年に乾板写真の撮影に成功し「早撮りの江崎」と言われた著名な写真師の江崎礼二が、浅草寺の近くに1890(明治23)年に開業した12階建ての凌雲閣(りょううんかく)の展望台から撮影したとみられる。

 写真の手前には、明治維新まで羽後本荘藩主だった六郷家の下屋敷や蓮田、田畑がみられ、その奥に吉原の街区が広がっている。木造3階建ての大きな妓楼(ぎろう)になると時計台や塔を備えるものもあり、客寄せに設けられたバルコニーなども見える。梅毒の検査をした検黴(けんばい)病院なども写っている。

 作家樋口一葉の「たけくらべ」…

(残り:316文字/全文:816文字)

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2018年7月26日12時53分
https://www.asahi.com/articles/ASL7T64R2L7TPTFC01P.html

凌雲閣から撮影されたとみられる吉原の全景写真
AS20180725005308_comm
台紙の裏面には「東都吉原」などと記されている
AS20180725005310_comm
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1532608197/続きを読む

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