(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

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1: しじみ ★ 2017/03/13(月) 07:48:28.75 ID:CAP_USER9
「甲賀五人」の子孫

 渡辺俊経さん79

 先祖は尾張徳川家に仕えた忍びで、「甲賀五人」の1人として年に1度、尾張藩で鉄砲の撃ち方などを武士に指南した渡辺善右衛門。
普段は、地元で農作業などをして暮らしていたことが、自宅の蔵から見つかった古文書でわかった。

 忍者の実態は、今も謎に包まれているが、先祖が「古文書に書き残していたことに誇りを感じる」と喜ぶ。
実は、先祖が忍者であり、家に古文書が残されていることは、両親からも一切聞かされていなかったという。

 2000年に忍者研究などをしている団体のメンバーとの会合で、「渡辺善右衛門について教えてほしい」と尋ねられた。
10歳の頃、祖母から「善右衛門」という名を受け継ぐはずだったことや、約200年前の火事でも蔵だけが焼けずに残った、という話を聞かされたのを思い出した。

 蔵にあるたんすの引き出しを探すと、約150もの古文書が出てきた。
見つけた当初は古文書の崩し字が読めず、10年かけて勉強した。

 歴史学者の磯田道史さんらに見てもらうと、徳川家に仕えた時の機密保持を誓った「起請文きしょうもん」のほか、鉄砲指南役として甲賀から先祖を含む5人が召し抱えられたり、火薬や薬を調合したりしていたことなどが記載されたものもあった。
「江戸時代は平穏なため、農業をしながら年に1度出向くだけで給金がもらえた」という。

 古文書は昨春頃から、甲賀市教委に渡して解読を依頼しており、成果は、本にして残すように準備を進めている。
紛失や火事などで失う恐れがあるため、全てを市教委に寄託する予定で、貴重な地域の遺産として保存することを願う。

読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/local/shiga/news/20170313-OYTNT50011.html?from=tw
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1489358908/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/03/04(土) 16:56:19.85 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170304-00010000-nishinpc-soci

「武器じゃないか?」「金の宝だろう?」-

江戸時代の蘭学者で医師の緒方洪庵(1810~63)も何に使うか分からず、“謎の物体”とされてきた物の正体が160年後の現代、大分県日田市の咸宜園教育研究センターの職員の手で明らかになった。
それはろうそくの火を消すための道具「キャンドルスナッファー」。センターで開催中の企画展「廣瀬旭荘・敬四郎文庫」で公開中だ。

センターによると、物体は洪庵の友人で日田出身の漢詩人・儒学者、広瀬旭荘(きょくそう)(1807~63)の子孫宅から2012年に見つかった。
金属製で全長18・5センチ、幅3センチ。先端は箱型で、はさみのように開閉できる仕組み。
この物体について記述した旭荘の日記の一部と、スケッチも一緒に見つかった。日記は1842(天保13)年から53(嘉永6)年の間に書かれたとみられる。

日記によると、物体は6月26日、旭荘が拠点にしていた大坂(大阪府)で、漁の網に掛かっているのを発見。
「色は黒くてかすかに赤く漆で染めたような感じ」といい、「西洋のものではないか」と考えた旭荘は、友人に尋ねるが 「戦に使う道具ではないか」という人や「元は金(きん)だろう」という人がいて答えは出ない。
物体にはオランダ語に似た文字が彫られていたため旭荘は友人の洪庵にも見せるが回答は「不識」。結局正体は分からなかった。

突き止めたのはセンターの学芸担当、溝田直己さん(35)。旭荘関連の資料を
調査中だった2014年、旅行先でチェコの画家の作品展を観賞。作品の一つに
よく似たものが描かれているのに気が付き、それがキャンドルスナッファーと
分かった。
「一体何なのか見当も付かなかったので、絵を見たときは衝撃だった。できるなら旭荘さんにも教えてあげたかった」と溝田さん。
企画展は入館無料で31日まで。

キャンドルスナッファーを手にする溝田直己さん
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1488614179/続きを読む
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1: ニカワ ★ 2017/02/01(水) 05:21:05.54 ID:CAP_USER9
子供がいないことを理由にした離縁状(群馬県立文書館提供)
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 江戸時代、子供がいないことを理由に夫が妻に渡した「三行半(みくだりはん)」(離縁状)が、三行半研究の第一人者の群馬県太田市立縁切寺満徳寺資料館名誉館長、高木侃(ただし)さん(75)の調査で初めて見つかった。三行半は離縁理由を記載しない例が多く、高木さんは「極めて貴重な史料だ」と驚いている。

 この三行半は安政5(1858)年7月、道之助がおげんに宛てたもの。文中「未ダ一子もこれなく(中略)今般利(離)縁致候」と記載されている。

 高木さんの研究によると、江戸時代の離縁状は離縁する理由を書いていないものが最も多く、次いで、現代の一身上の都合に当たる「我等勝手」など抽象的表現にとどまっているのが一般的。親権の所在が記載されているケースはまれにあるという。

 この三行半は高木さんが調査中に太田市内の旧家で偶然見つけたもので、群馬県立文書館(前橋市)に寄託された。

 高木さんはこれまで、約1300通の三行半を調査している。

 「夫がよほど、子供を欲しかったのかもしれない」と話している。

http://www.sankei.com/life/news/170129/lif1701290011-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1485894065/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/01/30(月) 04:44:11.23 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170129-00000019-san-l24

俳人・松尾芭蕉(1644~1694)の愛好家や忍者ファンならずとも広く知られた芭蕉忍者説を考える講演会「芭蕉忍者説の傾向と対策」が28日、伊賀市上野丸之内のハイトピア伊賀で開かれた。
三重大の吉丸雄哉准教授(日本近世文学)が、説の起源や信憑性を解説した。

芭蕉忍者説には、芭蕉が伊賀の無足人(準士分の上層農民)で伊賀者(=忍者)として藤堂藩に雇われていたとする説や、芭蕉が歩いた「奧の細道」の足跡は忍者と思えるような健脚ぶりを示し、東北諸藩の情勢を幕府が芭蕉に探らせる裏の目的があったといった説がある。

吉丸准教授はこうした説に対し、「芭蕉は無足人の流れをくむが、父の代ではすでに農民で伊賀者とは無関係」「歩く速度は当時の健脚な日本人と変わらない」と指摘。「芭蕉は早くから神格化され逸話の多い人物だが、忍術を使った話が残っていない」とも話し、忍者説を裏付ける痕跡は存在しないと強調した。ただ、「奧の細道」に同行した弟子の曾良(そら)の忍者説については「蓋然性がある」とした。

また、芭蕉忍者説の起源として、作家の松本清張氏と考古学者の樋口清之氏が共同執筆した『東京の旅』(昭和41年)で特定の秘密任務を帯びた忍者として推測されていることを挙げ、推理小説家、斎藤栄氏の『奧の細道殺人事件』(同45年)や連続テレビ時代劇「隠密・奥の細道」(同63年~平成元年)などによって広く定着していく過程を明らかにした。

吉丸准教授は「芭蕉忍者説は証明できない幽霊のような存在。芭蕉は偉大な俳人、世界に誇る詩人であり、忍者をセットにして評価を高めようとするのはおせっかい」と話した。

講演は、三重大人文学部と上野商工会議所が企画した「忍者・忍術学講座」の第4回で市民ら約90人が聴講。第5回は2月18日午前10時半に同じ会場で、中部大人文学部の岡本聡教授が「芭蕉のネットワークと藤堂家」をテーマに話す。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1485719051/ 続きを読む
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97: 世界@名無史さん 2016/08/12(金) 13:55:00.14 0
平田篤胤って仙童寅吉に騙されていたんじゃないのかな? 
9年、10年も赤の他人を世話とか
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1470172159/

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1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2016/12/25(日) 13:51:05.94 ID:D4bQjaXT0XMAS
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EkVdyOa

じいさん「ワイの代わりにイッヌに行かせたろ!」
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1482641465/ 続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2016/12/03(土) 05:50:56.08 ID:CAP_USER9
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161203-00000019-asahi-soci

「忠臣蔵」の敵役で知られる吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、
1641~1702)が、江戸城・松の廊下で、浅野内匠頭長矩
(たくみのかみながのり)に切りつけられた刃傷事件直後の様子を伝える
記録が、浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)でみつかった。
研究所が2日発表した。専門家は、刃傷事件直後の吉良の様子を伝える
貴重な一次史料の発見と評価する。

みつかった史料は、吉良家との関係が深かったとみられる西本願寺が、
江戸の築地本願寺に送った書状の控えを集めた「江戸江遣書状留帳
(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所の保管史料の中から
みつかった。書状は元禄14(1701)年1月20日から翌15年12月24日まで、
刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが
記録されていた。

史料によれば、元禄14年3月14日の刃傷事件後の21日の書状で、
西本願寺が事件を「不慮の儀(思いがけない事件)」と表現し、吉良への
見舞いの使者を派遣するように求めた。

4月5日には「吉良殿御痛も軽ク、御食事無替事由(吉良殿、お痛みも軽く、
食事も相変わることがない由)」と記したほか、「浅野内匠頭殿の乱心の様子を
承りたいが、委細の様子が上申されていない」とし、事件の経緯やうわさを
詳しく聞くように命じるなど事件への関心の高さを示した。さらに、元禄15年
12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して
「驚いたことである。言語に絶える」と表現していた。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1480711856/ 続きを読む
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