(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: イセモル ★ 2017/08/11(金) 07:53:59.65 ID:CAP_USER9
徳川家に伝わる美術品や絵画を集めた「徳川将軍家へようこそ」展が、東京・墨田区の江戸東京博物館で11日から開かれます。

「徳川将軍家へようこそ」展には、初代将軍の家康から大政奉還した15代将軍の慶喜、その跡を継いだ家達にまつわる品々が展示され、当時の生活様式や文化、美意識の移り変わりを読み取ることができます。

徳川記念財団・徳川家広理事:「(江戸時代は)日本が独自の文明になった時代だと思います。それを支えた人たちにまつわるものですね」

江戸時代後期の絵師・酒井抱一の描いた「武蔵野富士図」は、ススキやリンドウなどを描き込むことで、江戸から見た秋の富士山を表現しています。また、14代将軍の家茂に嫁いだ皇女・和宮の使っていた調度品なども展示されます。この美術展は来月24日まで開かれます。


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引用元にニュース動画もあります
http://news.tv-asahi.co.jp/sphone/news_society/articles/000107504.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1502405639/続きを読む
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1: フラのベランダー ★ 2017/08/06(日) 18:36:27.74 ID:CAP_USER9
2017.08.06 16:00

https://parts.news-postseven.com/picture/2017/08/aflo_ino.jpg

 教科書に出てくるような歴史上の偉人たちは、「現役時代」に華やかな活躍をしているのが一般的だ。だが、なかには「歴史に残る偉業を“定年後”に成した」珍しいタイプの偉人もいる。

 江戸時代の測量家で、日本中を旅して『大日本沿海輿地全図』を作った伊能忠敬(1745~1818)だ。実は、その業績は“現役時代”のものではなく、天文学や測量学を勉強し始めたのは隠居後の51歳からだったというから驚きである。歴史研究家の井手窪剛氏が解説する。

「忠敬はもともと豪商の入婿で、傾きかけた家業を立て直した後、実地測量による日本全図の作成に取りかかったのは56歳からでした。当時の日本人の平均寿命は40歳前後と言われる中、忠敬は足かけ18年、測量を続けました。地図は死後、弟子たちによって完成されました。“歴史に輝く老後”というべきでしょう」

↓続きは
https://www.news-postseven.com/archives/20170806_600720.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1502012187/続きを読む
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1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2017/08/05(土) 19:39:37.23 ID:CAP_USER9
あの偉人たちは「定年後」どんな生活をしていたのだろうか? まずは、征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~1199)。日本の歴史の転換を成し遂げた人物であるが、その晩年は謎に包まれている。歴史研究家の河合敦氏(多摩大学客員教授)が解説する。

「鎌倉幕府の正史『吾妻鑑』には、頼朝が死ぬ前後の1196年1月から1199年1月までの3年間の記述が欠落しているのです。同時代の他の文献には、頼朝の死は“急死”とも“過労”とも“糖尿病”とも記されている。

『吾妻鑑』では死因を“相模川大橋の落成式の帰りに落馬し、それがもとで亡くなった”としていますが、それが記されたのは頼朝が死んでから13年後です。つまり、死因は定かでないうえに、『吾妻鑑』は幕府に都合良く書き換えられた可能性があります。そのため、頼朝は暗殺されたという説も根強いのです」

「三方一両損」の“大岡裁き”で名を残す江戸時代の町奉行・大岡忠相(1677~1752)はこんな目に遭った。

 忠相が町奉行の時代、江戸では米価が低迷しているのに、その他の物価が上がるという現象が起きた。そうなると、米で給料を受け取る武士たちは生活に困る。

「忠相は“両替商が金と銀の為替を不正に操作している”と思い込み、両替商を厳しく処罰しました。怒った両替商たちが幕府の高官に談判した結果、忠相は旗本でありながら大名の役職である寺社奉行に配置転換されました。

その頃の寺社奉行は若手大名のポスト。60歳を過ぎて赴任した忠相は、若い奉行たちから『ここはあなたのような人が来るところではない』と追い返されるなど、“陰湿なイジメ”を受けたという記録があります」(前出・河合氏)

 名裁判官といえど、争いの当事者になればその能力は役に立たなかったようだ。

 頓知(とんち)の問答で知られ、アニメにもなった禅僧の一休宗純(1394~1481)は、臨終の間際に「死にとうない」と、率直ではあるがごく普通のつまらない言葉を残している。死に際まで頓知を利かせる余裕はなかったのだろうか。

※週刊ポスト2017年8月11日号


https://www.news-postseven.com/archives/20170805_600717.html?PAGE=1#container
2017.08.05 16:00
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1501929577/続きを読む
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1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2017/07/24(月) 10:03:31.70 ID:CAP_USER9
福井藩初代藩主、結城(松平)秀康(1574~1607年)が江戸幕府2代将軍、徳川秀忠に宛てた書状を福井信用金庫が入手し、23日から未来プラザふくしん(福井市乾徳)で公開している。長男で2代藩主となる忠直の縁談などについての礼状で、慶長11(1606)年に記されたとみられる。文献から、忠直と秀忠の三女、勝姫の婚約は慶長14(1609)年には結ばれていたとされるが、秀康存命中のより早い段階で縁談が検討されていた可能性を示す貴重な史料という。

 東京大史料編(へん)纂(さん)所が大正11年に作成した「酒井文書」に写しがあるが、縁談の記述がある前半部分と後半部分が一つづりになっておらず、別の文書とみなされていた。原本も所在不明となっていた。

 書状には縁談での計らいのほか、忠直の少将への取り立てについて、誠にかたじけなく思っているなどと記され、江戸城の普請についてお取り込み中などと気遣う内容だった。

 忠直と勝姫は慶長16(1611)年に結婚したとされる。書状から縁談の相手が勝姫かどうかは確認できないが、福井大教育学部の長谷川裕子准教授は「それ相応の待遇が用意されていたとみて差し支えないだろう」としている。

 展示は8月6日まで。

http://www.sankei.com/west/news/170724/wst1707240017-n1.html
2017.7.24 09:30
http://www.sankei.com/west/photos/170724/wst1707240017-p1.html
結城秀康の書状=福井市の福井信用金庫本店
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1500858211/続きを読む
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tokugawa_ieyasu
379: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/06/26(月) 15:39:27.62 ID:KnemOyt/d
江戸時代暗黒説と江戸時代優れてた説って決着つかんよな
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1498456082/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/06/15(木) 13:05:53.10 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170615-00010000-saga-l41

年老いた顔、牙から真っ赤な舌

佐賀に人魚伝説? 佐賀市本庄町の東光寺に、年老いた「人魚」を描いたとみられる謎の掛け軸がある。胸から下は魚、肩口までうろこをまとったその姿は、確かに人魚。
笑っているのか、むき出しになった牙の隙間から真っ赤な舌がのぞき、目を見開いて振り返る様子は、見る人が声を上げるほど、おどろおどろしい。

いつ誰が何のために?全てが謎

「いつ誰が何のために描いたものか、全てが謎」と住職の三浦祥善さん(68)。
絵に落款はなく、裏側は白紙で日付も作者の名前もない。

東光寺は佐賀藩祖・鍋島直茂の父清房の代まで祖先供養する氏仏(うじぼとけ)として崇敬され、その後も直茂が薬師堂や厨子(ずし)を建造するなど、鍋島家とゆかりが深い。

掛け軸にまつわる言い伝えは一切なく、「現在の建物に寺を移した1953年には
既にあったと記憶している」という。三浦さんの祖母が「人魚(にんぎょ)の魚(ぎょ)」と呼んでいたため、今もその名前を使っている。

不気味な容姿

かつては絵が見えにくいほど表面が黒ずんでいた。20年ほど前に「どう描かれているのかよく見てみたい」とクリーニングで汚れを取り除いたところ、舌の鮮やかな赤色が現れ、「不気味な容姿にあらためてびっくりした」という。

掛け軸を見て泣き出すことも

寺を訪れた子どもが掛け軸を見て泣き出すこともあったため、普段は飾らず床の間にしまっている。三浦さんは「見る勇気のある方は、ぜひご連絡を」と話す。


人魚の老婆が描かれた掛け軸=佐賀市本庄町の東光寺
20170615-00010000-saga-001-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497499553/続きを読む
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1: チンしたモヤシ ★  2017/06/16(金) 05:48:04.95 ID:CAP_USER9
6月16日は「和菓子の日」。さかのぼること平安時代……その由縁と歴史について
あの吉田松陰も大好物だった……といわれる「大福」
2017061500078_1
tenki.jpサプリ 記事(更新 2017/6/15 16:30)
https://dot.asahi.com/tenkijp/suppl/2017061500078.html


6月16日は「和菓子の日」、江戸時代には徳川将軍から手渡しでお菓子がもらえた!?
66-_kasho
http://mag.japaaan.com/wp-content/uploads/2017/06/image-11-900x491.jpeg
Japaaan歴史・文化 山田桜子@2017/06/15
http://mag.japaaan.com/archives/57071

梅雨らしい空模様が続くと外出が億劫になりますが、そんな日に自宅で過ごす楽しみといえば「菓子、アイス、スイーツを食べること」という方も少なくないと思います。特に見た目がかわいらしいケーキや和菓子は、天気に関係なく(笑)、ひと時の幸せをもたらしてくれますよね!
そんな折、明日6月16日が「和菓子の日」であることをご存じですか? 実はこの「和菓子の日」は、古くから“いわれ”のある記念日なのです。それにしても、なぜ6月16日が「和菓子の日」なのでしょう? 和菓子にまつわるトリビアも交えつつ、早速ご紹介していきましょう。

●「嘉祥の日」が「和菓子の日」に

だいぶ古い話になりますが、遡ること約1170年前の平安時代(848年/承和15年・嘉祥元年)。
仁明(にんみょう)天皇が「6月16日に“16”にちなんだ菓子などを神前に供えるように」という神のお告げに従ったことが「和菓子の日」のそもそものはじまり、といわれています。そして、仁明天皇はこのお告げをきっかけに、「めでたい」という意味がある「嘉祥(かしょう)」に元号をあらためたそう。神のお告げによって元号があらたまる……なんて現代では考えられないことですが、平安時代の時代性がうかがえるエピソードでもありますね。
鎌倉時代になると、時の天皇が6月16日に16枚の通貨と同価値の菓子を神前に供えるようになりました。さらに、室町時代には6月16日が「嘉祥の日」となり、天皇にお祝いの菓子を献上していたと『御湯殿上日記』に記されています。安土桃山時代には豊臣秀吉が「嘉祥の祝」を行っていましたし、江戸時代には6月16日に大名や旗本を江戸城の大広間に集めて、時の将軍から菓子が配られました。その際に用意された菓子は約2万個!にものぼり、儀式は「嘉祥頂戴」と呼ばれました。
庶民にも嘉祥の習わしは広まり、十六文(もしくは米一升六合)で買った菓子を食べていたのだとか。さらに、6月16日の夜に、16歳の子の振袖をおとして詰め袖にする「嘉祥縫」という風習もありました。他にも、6月16日に収穫した梅で作った梅干しを「嘉祥の梅」と呼び、旅立ちの日に食べることで旅の無事を祈ってもいました。
平安時代に始まった「嘉祥の日」の習わしは、災難を逃れ、健康を招く恒例行事として明治時代まで続きます。その後、昭和54(1979)年に一度忘れられた「嘉祥の日」を復活させるべく、全国和菓子協会が6月16日を「和菓子の日」としたのです。

つづく >>2-5
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1497559684/続きを読む
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1: 名無しさん@おーぷん 2017/06/13(火)10:47:57 ID:WD4
10~12代あたりが将軍と時代共々ちーとも思い出せん
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