(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: 樽悶 ★ 2018/10/13(土) 23:41:33.25 ID:CAP_USER9
お滝がシーボルトに送った手紙。「3月4日、同7日、同14日の三度の御手紙相届き」と書き始めている(宮崎克則教授提供)
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 江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルトに、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかった。シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としている。

 オランダ語訳の存在は知られていたが、日本語原本の所在は不明だった。ライデン大大学院生が同大の日本関係資料の中で発見し、宮崎教授が確認した。

 シーボルトは長崎・出島のオランダ商館の医師として1823年に来日。遊女だったお滝と知り合い、後に初の日本人女医となる娘イネを授かる。だが、持ち出しが禁止された日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、29年末に国外追放となった。

 手紙は30年12月に書かれた。シーボルトがオランダに戻る途中のインドネシアから同年3月に書き送り、8月に長崎に届いた3通の便りへの返事。オランダのシーボルトの元には31年夏ごろ、届けられたとみられる。

 手紙は全長3・4メートルもあり、「この(3通の)手紙をあなたと思って、毎日、忘れることはありません」「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」などと記し、娘の様子にも触れている。宮崎教授は筆跡などからお滝が語った内容を第三者が代筆したと分析している。

 お滝が手紙と一緒に送ったとみられる自身と娘の姿が描かれた嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、シーボルトがお滝に送った手紙はドイツにある。シーボルトが59年に再来日した際に、お互いの品を交換したらしい。共に保存状態も良く、宮崎教授は「お互いのことを本当に大事に思っていたのでしょう」と話している。

西日本新聞 2018年10月12日 06時00分
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/456889/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1539441693/続きを読む

1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2018/09/22(土) 00:28:42.84 ID:CAP_USER9
「70歳前後より若い者は役に立たない」「学問が盛んになり、秘術が信用されない」。

滋賀県甲賀市がこのほど刊行した資料集から、甲賀忍者が江戸時代の平和な世の中で自身の立場の衰退を嘆いたり、将来を不安視する姿が浮き彫りになった。
編集した市教育委員会は「忍者が重んじられない状況への危惧など、ここまで切実な肉声を記した記録は珍しい。
甲賀に限らず、当時の忍者全体に通じる問題ではないか」としている。

尾張藩に仕官した甲賀忍者に関する古文書の訳文や解説を載せた資料集「甲賀者忍術伝書-尾張藩甲賀者関係史料Ⅱ-」で、昨年刊行した資料集の第2弾。
同藩に伝わる文書を紹介し、市内の民家で発見された文書の現代語訳も併載した。

尾張藩の史料は、甲賀の地で暮らしながら「忍び」として同藩に仕えた「甲賀五人」の頭(かしら)である初代木村奥之助(1600年代半ば~1723年)が
弟子に口述して書き取らせた「無窮会所蔵史料 甲賀忍之伝未来記」など7点。全て楷書体に直し、解説を載せた。

「未来記」には、昔は甲賀の忍術が一つの流派として世間に浸透していたが、現在70歳前後より若い者は役に立たない-などと、
忍者の技術や立場の衰退を不安視する内容が並ぶ。

問題点として、

▽平和な世で業績がなく重宝されない
▽技術を試みる機会がなく、研鑽(けんさん)する気持ちがない
▽学問が盛んになり道理が重んじられ、秘術が信用されない
▽秘密性が高いため間違って伝えられることが多い-など13箇条を挙げている。

 「内容は甲賀五人に限らず、江戸期の忍び全体に通じる問題だろう。
忍術の伝授に関する文書は多く残るが、心情にまで想像力が及ぶ史料は貴重」と市教委歴史文化財課は説明する。

 また、「甲賀五人」を先祖に持つ同市甲南町の渡辺俊経さん宅で見つかった古文書類のうち11点の現代語訳を併せて掲載した。
尾張藩に「御忍(おしのび)役人」として出仕した契約書である「盟文之事」▽藩役人との忍びの術に関する問答記録
▽徳川家に対する甲賀武士の軍功を記して奉公を求めた願書-など、「甲賀五人の藩での立場や具体的に何をしていたのかが分かる史料」(同課)という。

https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180921000031

甲賀市が刊行した甲賀忍者資料集の第2弾(同市役所)
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1537543722/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/09/20(木) 04:35:39.80 ID:CAP_USER9
 九州の天領(幕領)を支配した西国筋郡代のお膝元である日田で、幕末期に行われた「絵踏(えぶみ)(踏み絵)」とキリシタン禁教令の実態が、広瀬資料館=日田市豆田町=に伝わる古文書の解読で明らかになった。その対象は庶民だけでなく、苗字帯刀を許された豪商や豪農にまで及んだ。6月に「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されたのを機に、同資料館の園田大・学芸員(40)が調査し、展示した。11月末まで。【楢原義則】

 絵踏は、幕府がキリスト教徒弾圧のため、キリストやマリアの像を刻んだ木や金属板を足で踏ませたもの。踏むことができれば信者ではないとされた。島原・天草一揆(島原の乱、1637~38年)後、弾圧をより強化した。

 園田学芸員が、豪商の広瀬家に伝わる古文書の中から日記に絞って調べた結果、絵踏は毎年3~4月に実施されていたことが判明。第7代当主の源兵衛が政治、経済、社会情勢などを記した「広瀬本家日記」には、嘉永6(1853)年3月15日付で「宗門御改め絵踏は代官所役人が立ち会う。丸山町など陣屋周辺は代官所で、豆田町、中城町、淡窓町は長福寺で、田島町、庄手町、竹田町がこれに続いた」(現代語訳、田島町以下は場所不明)と記されている。

 第6代当主の「久兵衛日記」にも安政3(56)年3月16日付で、代官所、長福寺で「宗門御改め(絵踏)」が行われたことが書かれ、「この年からは苗字帯刀を許された者も絵踏した」と特記されている。園田学芸員は「該当する豪商、町役人、大庄屋などは当時19人。この年に長崎でキリシタン弾圧第3弾の浦上事件があったためでは」と推測する。

 明治になっても弾圧は続き、広瀬家のメモ「国事雑録」には、明治元(68)年3月に「不審なる者あらばその筋の役所へ申し出よ」と記した太政官布告の高札が豆田町に掲げられたのを伝えている。

 高札の撤去は明治6(73)年。郷土史に詳しい豆田町の伊藤豊明さん(69)は「絵踏の実態が具体的、身近に解き明かされ驚いた」と話す。

毎日新聞 2018年9月19日
https://mainichi.jp/articles/20180919/ddl/k44/040/265000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1537385739/続きを読む

1: みつを ★ 2018/09/09(日) 19:47:47.07 ID:CAP_USER9
https://www.yomiuri.co.jp/culture/20180907-OYT1T50046.html

潜伏キリシタンが伝承、禁教期の元号入り暦発見
2018年9月9日 18時48分

 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産がある五島市・奈留島で、江戸時代の1850年(嘉永3年)の日付やキリスト教の記念日が記された潜伏キリシタンの暦が見つかった。1614年の禁教令発令後、1859年の開国までは国外から宣教師が入ってきていないことから、専門家は「禁教期に信者が暦を伝承したことを裏付ける貴重な証拠」と注目している。

 暦があったのは、世界文化遺産に登録されたキリシタン関連遺産の構成資産「奈留島の江上集落」と同じ西海岸に位置する同市奈留町浦、水産会社経営吉田茂樹さん(65)の自宅。先祖を祭る祭壇で杉箱に入れたままになっていたのを、「禁教期のキリシタン研究会」の柿森和年世話人が確認した。

 暦は十数ページの和紙に書かれ、「嘉永」の元号の日付が入っている。マリアがイエスを身ごもった受胎告知を祝う2月26日の「さんた丸や」(サンタマリア=聖母マリア)の記述から始まり、日曜日を意味する「どみんご」、日本で宣教が始まった日などが記されている。同じ内容を新しい和紙に書き写したものもあり、劣化した暦を更新したとみられる。

 暦の内容は、1634年の教会暦を日本の太陰暦に改編し、年間行事や儀礼の基準とされた「バスチャン暦」とほぼ同じ。潜伏キリシタンが信仰を続ける上で欠かせず、暦を管理する役職者が組織のリーダーを務めるほど重視されていた。

 暦が保管されていた杉箱には、殉教者の衣服とされる布きれも入っていた。集落では、隠れキリシタンの組織が昭和40年代まで残っており、死者を送る際に衣服の切れ端を持たせる習慣があったという。

 柿森世話人は「潜伏キリシタンの暦は各地で見つかっているが、元号が入っているものは珍しい。時代が分かる暦の中では、最も古い部類になるのではないか」と指摘。吉田さんは「先祖が代々伝承してきたもので、これからも大切に保管していきたい」と話した。(坂田元司)

奈留島で見つかった潜伏キリシタンの暦。右上が古い暦で、左上が新しく書き写したもの。右下は暦が入っていた杉箱
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1536490067/続きを読む

1: しじみ ★ 2018/08/27(月) 11:06:24.69 ID:CAP_USER
熊本県人吉市の人吉城跡敷地内に、江戸時代の築造とされる「謎の地下室」がある。発見されたのは20年以上前。その構造や伝承などから、郷土史家の間では「隠れキリシタンの遺構」との説が出ているが、市教育委員会は「証拠がない」と慎重な姿勢をとり続ける。さてその真相は。

 地下室は、人吉・球磨地域を約700年にわたって治めた相良(さがら)家の家老職、相良清兵衛(せいべえ、1568~1655)の屋敷跡で、1997年から98年にかけて見つかった。南北8・5メートル、東西9メートル、高さ3メートル以上の大規模なもので、石積みの壁に囲まれていた。国指定史跡の人吉城跡を整備するため85年度に始まった発掘調査がきっかけだった。

 2001年度には、そこから約120メートル離れた清兵衛の息子の屋敷跡で、似た構造の地下室が発見された。どちらも床へと続く階段状の通路があり、床には地下水をためる長方形の貯水池が掘り下げられていた。貯水池には底まで下りられる水中階段があった。

 似たような地下室遺構は国内でほかに見つかっていないといい、人吉市は、清兵衛の屋敷跡で05年に開館した人吉城歴史館に地下室を復元し展示。息子の屋敷跡の地下室も、見つかった場所で展示している。

 これらの地下室について、人吉市文化財保護委員長を務めた郷土史家の原田正史さん(91)=岡山県倉敷市=が6年前、自費出版した「驚愕(きょうがく)の九州相良隠れキリシタン」(人吉中央出版社)で、キリスト教の洗礼などに使われた秘密の礼拝施設だった可能性に言及した。今年2月には人吉・球磨地域で発行されている月刊誌で、キリスト教と関係の深いユダヤ教徒が身を清める施設「ミクヴェ」の遺構によく似ていることを初めて指摘し、強調した。

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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180822002937.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1535335584/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/08/20(月) 05:43:27.43 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180820/k10011582511000.html

今から150年余り前、幕末の将軍、徳川家茂と慶喜が西洋諸国との間に取り交わした外交文書に使用した印の実物が確認されました。
調査にあたった専門家は「江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

見つかったのは、「文武両道の政治を行う」という意味の「経文緯武」と彫られた縦・横9.2センチ、重さ2.7キロの銀印で、徳川家に伝わる資料などを管理する徳川記念財団が蔵を整理した際に、漆塗りの箱の中に残されていました。

東京大学史料編纂所の保谷徹所長などが調べたところ、幕末に西洋諸国との外交が始まったあと、14代将軍の徳川家茂と15代将軍の慶喜が国の代表として外交文書などに使用していた印の実物と確認されました。

この印は安政5年、西暦1858年に結ばれた日米修好通商条約の批准書などに将軍の署名とともに押されたことが、残された書面から確認できますが、実物がどこにあるのかわかっていませんでした。

保谷所長は「今回見つかった印は、将軍が当時の日本の主権者であることを明らかにするために使われた。江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

この印は、来月15日から新潟県立歴史博物館で開かれる「徳川の栄華」展で、来月30日までの期間限定で公開される予定です。


外交迫られ 正式な印を製作

東京大学史料編纂所の保谷徹所長によりますと、今回見つかった印は、安政4年、西暦1857年に幕府が製作を指示した記録が残されています。

その翌年の安政5年にアメリカやイギリスなど5か国との間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年に取り交わした批准書のうち、少なくとも日米、日英、日仏の書面には、将軍・家茂の署名とともにこの印が押されていることが確認できたということです。

また、文久遣欧使節を派遣した際の信任状にも使われているということです。次の慶喜の時期には、慶応3年(西暦1867年)にデンマークとの間に取り交わした条約の批准書や、同じ年に弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣した際の信任状などに使用されています。

この印が作られる3年前には、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれていますが、印は使用しておらず、当時の老中の署名があるだけでした。

しかし、その後、西洋諸国とのさらなる外交を迫られたことから、外交諮問役だった林復斎の進言により、文書に使う正式な印を製作することになったということです。

保谷所長は「幕末に和親条約を結び、外国とのつきあいが始まるということで、外国の書簡に一定の印を押したほうがいいだろうと幕府が諮問をして印章を作らせました。作られて以降は、将軍が相手国に送る国書にはこの印が押されていると思います」と話しています。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534711407/続きを読む

1: サイカイへのショートカット ★ 2018/08/12(日) 02:51:02.26 ID:CAP_USER9
蔵からお宝、皇族ゆかりの神輿発見 京都・大原
2018年08月11日 17時00分 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180811000087

皇族出身の僧が住職を務めた「梶井門跡」(現在の三千院)が寄付したとみられる江戸時代の神輿(みこし)がこのほど、京都市左京区で見つかった。屋根などに菊の御紋が入り、皇室との深い関わりを裏付ける。
同区大原の古文書を研究する住民団体が史料をひもとき、古老の証言を聞きつつ、大原の神社の蔵で保管されているのを発見した。文献でルーツなどを探っており、いまは途絶えている神輿を用いた祭礼の復活も目指す。

住民団体は「勝林院研究会」で、3月に発足した。勝林院(左京区大原勝林院町)は大原の地で伝えてきた仏教音楽「声明(しょうみょう)」の道場として、1013年に建立された。
同研究会は、市歴史資料館に預けられている同院文書をふるさとの歩みを記す史料とみて、デジタル保存と解読を進めている。

この一環で6月ごろ、声明の神様をまつる勝手神社(同区大原来迎院町)の蔵で神輿を見つけた。
全長が約3・6メートルで、屋根には菊の御紋が付き、鳳凰(ほうおう)の飾り金具もあった。神輿の几帳(きちょう)には江戸末期の1845年に「梶井御殿御寄(き)附(ふ)」があったことが書かれていた。
同研究会は勝林院を管理した梶井門跡の住職が、神輿や飾りを修復するか新調するかして寄付したとみている。

研究会の調査によると、江戸時代には4月に年中行事として「勝手大明神祭礼」を催していたとの記録があった。
明治時代まで続いていたが、明治政府の神仏分離令をきっかけに途絶えてしまったという。神輿の来歴や用いられ方には不明な点が多く、研究会は文書を解析して明らかにしようとしている。

勝林院文書は、江戸期を中心に中世や明治期を含めて2千~3千点にも上る。市歴史資料館によると、大原は洛中に近い地域ながら郷土史に未解明な点が多く、文書調査は仏教との関わりや民衆文化を知る手掛かりになる可能性があるという。

研究会を主宰する上田寿一さん(70)は「文書を通じて日本音楽の原点とされる声明とその守り神、地域や習俗との関わりを読み解きたい。その先に、さとづくりの象徴として祭礼の復興も考えたい」と話している。


声明の守り神をまつる勝手神社で見つかった神輿。菊の御紋が屋根などに入っている(京都市左京区大原)
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534009862/続きを読む

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