(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 江戸時代

1: しじみ ★ 2018/08/27(月) 11:06:24.69 ID:CAP_USER
熊本県人吉市の人吉城跡敷地内に、江戸時代の築造とされる「謎の地下室」がある。発見されたのは20年以上前。その構造や伝承などから、郷土史家の間では「隠れキリシタンの遺構」との説が出ているが、市教育委員会は「証拠がない」と慎重な姿勢をとり続ける。さてその真相は。

 地下室は、人吉・球磨地域を約700年にわたって治めた相良(さがら)家の家老職、相良清兵衛(せいべえ、1568~1655)の屋敷跡で、1997年から98年にかけて見つかった。南北8・5メートル、東西9メートル、高さ3メートル以上の大規模なもので、石積みの壁に囲まれていた。国指定史跡の人吉城跡を整備するため85年度に始まった発掘調査がきっかけだった。

 2001年度には、そこから約120メートル離れた清兵衛の息子の屋敷跡で、似た構造の地下室が発見された。どちらも床へと続く階段状の通路があり、床には地下水をためる長方形の貯水池が掘り下げられていた。貯水池には底まで下りられる水中階段があった。

 似たような地下室遺構は国内でほかに見つかっていないといい、人吉市は、清兵衛の屋敷跡で05年に開館した人吉城歴史館に地下室を復元し展示。息子の屋敷跡の地下室も、見つかった場所で展示している。

 これらの地下室について、人吉市文化財保護委員長を務めた郷土史家の原田正史さん(91)=岡山県倉敷市=が6年前、自費出版した「驚愕(きょうがく)の九州相良隠れキリシタン」(人吉中央出版社)で、キリスト教の洗礼などに使われた秘密の礼拝施設だった可能性に言及した。今年2月には人吉・球磨地域で発行されている月刊誌で、キリスト教と関係の深いユダヤ教徒が身を清める施設「ミクヴェ」の遺構によく似ていることを初めて指摘し、強調した。

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朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180822002937.html
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1535335584/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/08/20(月) 05:43:27.43 ID:CAP_USER9
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180820/k10011582511000.html

今から150年余り前、幕末の将軍、徳川家茂と慶喜が西洋諸国との間に取り交わした外交文書に使用した印の実物が確認されました。
調査にあたった専門家は「江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

見つかったのは、「文武両道の政治を行う」という意味の「経文緯武」と彫られた縦・横9.2センチ、重さ2.7キロの銀印で、徳川家に伝わる資料などを管理する徳川記念財団が蔵を整理した際に、漆塗りの箱の中に残されていました。

東京大学史料編纂所の保谷徹所長などが調べたところ、幕末に西洋諸国との外交が始まったあと、14代将軍の徳川家茂と15代将軍の慶喜が国の代表として外交文書などに使用していた印の実物と確認されました。

この印は安政5年、西暦1858年に結ばれた日米修好通商条約の批准書などに将軍の署名とともに押されたことが、残された書面から確認できますが、実物がどこにあるのかわかっていませんでした。

保谷所長は「今回見つかった印は、将軍が当時の日本の主権者であることを明らかにするために使われた。江戸時代に国を代表して押された印が残されていたのは非常に驚きで、大変貴重な発見だ」と話しています。

この印は、来月15日から新潟県立歴史博物館で開かれる「徳川の栄華」展で、来月30日までの期間限定で公開される予定です。


外交迫られ 正式な印を製作

東京大学史料編纂所の保谷徹所長によりますと、今回見つかった印は、安政4年、西暦1857年に幕府が製作を指示した記録が残されています。

その翌年の安政5年にアメリカやイギリスなど5か国との間に修好通商条約が結ばれ、翌安政6年に取り交わした批准書のうち、少なくとも日米、日英、日仏の書面には、将軍・家茂の署名とともにこの印が押されていることが確認できたということです。

また、文久遣欧使節を派遣した際の信任状にも使われているということです。次の慶喜の時期には、慶応3年(西暦1867年)にデンマークとの間に取り交わした条約の批准書や、同じ年に弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に派遣した際の信任状などに使用されています。

この印が作られる3年前には、アメリカとの間で日米和親条約が結ばれていますが、印は使用しておらず、当時の老中の署名があるだけでした。

しかし、その後、西洋諸国とのさらなる外交を迫られたことから、外交諮問役だった林復斎の進言により、文書に使う正式な印を製作することになったということです。

保谷所長は「幕末に和親条約を結び、外国とのつきあいが始まるということで、外国の書簡に一定の印を押したほうがいいだろうと幕府が諮問をして印章を作らせました。作られて以降は、将軍が相手国に送る国書にはこの印が押されていると思います」と話しています。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534711407/続きを読む

1: サイカイへのショートカット ★ 2018/08/12(日) 02:51:02.26 ID:CAP_USER9
蔵からお宝、皇族ゆかりの神輿発見 京都・大原
2018年08月11日 17時00分 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180811000087

皇族出身の僧が住職を務めた「梶井門跡」(現在の三千院)が寄付したとみられる江戸時代の神輿(みこし)がこのほど、京都市左京区で見つかった。屋根などに菊の御紋が入り、皇室との深い関わりを裏付ける。
同区大原の古文書を研究する住民団体が史料をひもとき、古老の証言を聞きつつ、大原の神社の蔵で保管されているのを発見した。文献でルーツなどを探っており、いまは途絶えている神輿を用いた祭礼の復活も目指す。

住民団体は「勝林院研究会」で、3月に発足した。勝林院(左京区大原勝林院町)は大原の地で伝えてきた仏教音楽「声明(しょうみょう)」の道場として、1013年に建立された。
同研究会は、市歴史資料館に預けられている同院文書をふるさとの歩みを記す史料とみて、デジタル保存と解読を進めている。

この一環で6月ごろ、声明の神様をまつる勝手神社(同区大原来迎院町)の蔵で神輿を見つけた。
全長が約3・6メートルで、屋根には菊の御紋が付き、鳳凰(ほうおう)の飾り金具もあった。神輿の几帳(きちょう)には江戸末期の1845年に「梶井御殿御寄(き)附(ふ)」があったことが書かれていた。
同研究会は勝林院を管理した梶井門跡の住職が、神輿や飾りを修復するか新調するかして寄付したとみている。

研究会の調査によると、江戸時代には4月に年中行事として「勝手大明神祭礼」を催していたとの記録があった。
明治時代まで続いていたが、明治政府の神仏分離令をきっかけに途絶えてしまったという。神輿の来歴や用いられ方には不明な点が多く、研究会は文書を解析して明らかにしようとしている。

勝林院文書は、江戸期を中心に中世や明治期を含めて2千~3千点にも上る。市歴史資料館によると、大原は洛中に近い地域ながら郷土史に未解明な点が多く、文書調査は仏教との関わりや民衆文化を知る手掛かりになる可能性があるという。

研究会を主宰する上田寿一さん(70)は「文書を通じて日本音楽の原点とされる声明とその守り神、地域や習俗との関わりを読み解きたい。その先に、さとづくりの象徴として祭礼の復興も考えたい」と話している。


声明の守り神をまつる勝手神社で見つかった神輿。菊の御紋が屋根などに入っている(京都市左京区大原)
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534009862/続きを読む

1: みつを ★ 2018/08/14(火) 18:47:19.06 ID:CAP_USER9
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8B4HSGL8BPLBJ001.html?ref=tw_asahi

江戸時代の食生活の変化、書物の紙に混ざった毛髪で判明
野中良祐
2018年8月14日18時5分

 江戸時代の書物の紙に含まれていた毛髪を分析したところ、当時の庶民の食生活が見えてきた――。そんな研究結果を14日、龍谷大などの研究チームが発表した。時代が進むにつれて、海産魚をよく食べるようになったことなどが、元素の分析から推定されるという。

 龍谷大の丸山敦准教授(生態学)によると、江戸時代の都市では出版ブームが起こり、たくさんの書籍が発刊された。大量の紙が必要なことから、古紙の回収や再生紙づくりも盛んになり、この過程で毛髪が紙に埋め込まれた。これらの毛髪は、たまたま混入した可能性のほか、耐久性を上げるための材料として、意図的に混ぜられたとする説もあるという。

 チームは、江戸時代に作られた書物から、130サンプルの毛髪を採取。炭素や窒素の同位体の割合を分析し、食生活を調べた。

 その結果、1700年以降の200年間に、海産魚を食べる割合が徐々に増加していったことが裏付けられた。漁業技術が発達し、ニシンなどの漁獲量が増えたことが背景とみられる。
 地域別にみると、江戸では、ヒエやアワなどの雑穀を食べる割合が比較的多かった。「江戸患い」と呼ばれた脚気が流行したため、ビタミンを含む雑穀を食べる健康法が広まっていた可能性があるという。

 丸山さんは「今後、飢饉(ききん)などの大きな出来事の前後で食生活が変わったかどうかについても、詳細に調べたい」と話している。(野中良祐)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534240039/続きを読む

1: 自治郎 ★ 2018/08/04(土) 22:42:25.97 ID:CAP_USER9
 長野県の諏訪市博物館に寄贈された300年前の押し花・押し葉が、国立科学博物館の調査の結果、採集年月日や場所が分かるものとしては日本最古であることがわかった。

 諏訪市博物館によると、採集者は江戸中期の高島藩士、渋江民右衛門古伴(ひさとも)。昨年10月に渋江家の子孫から寄贈を受けた。サクラやウメ、トチノキ、マツ、クスノキなど25点あり、うち13点は現在の関西で採集されたものだという。

 採集時期は、明確なもので1719(享保4)年~24(同9)年。後にドイツの医師、シーボルトが日本の押し葉標本を多数持ち帰るが、今回確認されたものはそれより100年も古い。諏訪市博物館は「地元のものはなく、藩の活動で遠くに行った折に採集していたようだ。採集目的を知りたいところだが、それは分かっていない」としている。(依光隆明)

2018年8月4日21時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL84313ZL84UOOB003.html

日本最古と判明した押し花・押し葉の一部
AS20180804002320_comm
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533390145/続きを読む

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