(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 室町時代

1: 名無しさん@涙目です。 2018/07/28(土) 15:00:09.78 ID:1IGE5UMz0● BE:601381941-PLT(13121)
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【マンガ】現代人には絶対解けないなぞなぞ「母には二度会うけど、父には一度も会わないもの、なーんだ?」

サクッと読めて、会社や学校でちょっと知ったかぶりできる「マンガで雑学」。今回は言葉に関する雑学3つをお送りします。


「母には二度会うけれども、父には一度も会わない」、なーんだ?

これは、時代の流れで答えがなくなってしまった室町時代のなぞなぞです。当時の正解は「くちびる」。
その理由は「母(はは)」と発音するときは上下のくちびるが2回接触し、「父(ちち)」のときは接触しないというものだったとか。

しかし、現代人が口にすると、「はは」「ちち」ともにくちびるが接触しないはず。日本語の発音が変わり、問題の前提条件が崩れてしまったというわけです。もうなぞなぞとして楽しむことはできませんが、学問の世界では、録音装置がなかった時代の発音を教えてくれる資料として活用されることがあるようです。


ゴリ押しの「ゴリ」って何?

「ゲームのゴリ押しプレイ」などの形で使われる「ゴリ押し」。この「ゴリ」は、川底に生息する小さな魚などの総称といわれています。地域によって指す魚の種類が異なるのですが、ハゼなどを意味することが多いそうです。

ゴリの漁には「板を使って川底の石を動かし、石の下などに隠れているゴリを強引にかごの中に追い込む」という手法が。一説には、この漁のやり方が強引なことから「ゴリ押し」という言葉が生まれたとか。


昔のかまぼこは、現在で言うところの「ちくわ」

「かまぼこ」という言葉の誕生には、「神功皇后が鉾(ほこ)の先に魚肉をつぶしたものを塗りつけ、焼いて食べた」という伝説が関わっているとか。この食べ物が植物の蒲(がま)の穂に似ていることから、「蒲鉾」(かまぼこ)と呼ばれるようになったといいます。

この“かまぼこ”はかつて高級品だったのですが、江戸時代中期以降、町人なども口にするように。
すると、「武士の魂である鉾を食べるとは」とケチをつける武士が現れるようになったとか。これを嫌がった庶民が「竹の切り口に似ているから『竹輪(ちくわ)』」と呼び始めたことから、「かまぼこ→ちくわ」という名前の入れ替わりが
起こったといわれています。

http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1807/27/news099.html
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1532757609/続きを読む

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724: 風吹けば名無し 2018/07/06(金) 15:13:33.06 ID:KZOpt5XG0
農民っていうと権力に従順な被支配層ってイメージやけど戦国時代までは全然イメージ違うんだよな 
成人男性だったら帯刀していて当たり前(そうじゃなきゃ子供か隷属民)、隷属民を抱えている家も多い、村の自由民男性だったら村の中では一種の支配層、村同士で抗争抗争アンド抗争、 
どの武将につくか決めるなどの立ち回り要素あり、村中総出で合戦を観戦に行ってどっちかが負けたら楽しく落ち武者狩り 

特に湯起請や火起請みたいな裁判は絶対にやりたくないンゴねえ
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1530853442/

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1: ごまカンパチ ★ 2018/06/24(日) 18:29:27.07 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180623-00000537-san-soci
 大阪府八尾市の顕証(けんしょう)寺(浄土真宗本願寺派)に同寺の開祖・蓮如上人(1415~99年)が成仏させた大蛇の骨と伝わる巨大な頭骨がシャチであることが分かり、23日に東京で開催された生き物文化誌学会で、大阪大総合学術博物館の伊藤謙特任講師らの調査グループが発表した。
シャチのほぼ完全な古い頭骨はあまり例がなく、化石であれば国内初の貴重な資料となるため、今後の調査に注目が集まりそうだ。

 この骨は「蓮如上人ご救済の大蛇骨」として、同寺に伝えられてきた。伝承では、石山本願寺(現大阪城)の開創(1496年)直後に現在の大阪市中央区の南御堂付近で発見。蓮如の夢に現れた女が大蛇「龍女(りゅうじょ)」に変えられて苦しんでいると訴えたことから、これを救済したあと海に死体があがった、とされている。

 骨は頭部から上あごにかけてで、最大長は約1メートル、幅は65センチと大きく、重さも約70キロ。全身は約7メートルになるとみられる。

 伊藤氏がこの骨の存在を知り、鳥取県立博物館の渡辺克典氏や益富地学会館(京都市)の石橋隆氏らと調査。上あごの歯列跡やサイズ、頭蓋の特徴などから、完新世(約1万年前~現在)のシャチと判断した。骨の表面の硬化状態から化石である可能性が高く、今後生息していた年代などを詳しく調べるという。

 顕証寺の近松真定(しんじょう)・第20代住職によると、頭骨は「お堀を掘っている折に見つかった」とも伝わる。
実際に大蛇骨の発見場所とされる付近では、地下鉄工事などの際に完新世初期の地層から鯨類の化石が大量に発見されているといい、伊藤氏は「そのころの環境にシャチもいたと考えるのは十分可能。海の生き物の頂点にあるシャチの研究の一級の資料になる」と話す。

 一方で、頭骨にはのこぎりのような道具で切り取られた跡も見つかっている。発見後の数百年の間についたとみられるが、詳しい理由は分かっておらず、グループではこの点も今後調査したいとしている。

 近松住職は「龍女伝承も大切だが、こうしたしっかりした調査によって何であるかが明らかになることも大切で、ありがたいこと」と話し、ほとんど公開されてこなかった頭骨の一般公開も検討しているという。

 伊藤氏は「文化的価値と自然科学的価値を併せ持ち、極めて貴重。こうした資料は各地に眠っていると思われ、今後の同様の調査のきっかけとするためにも、頭骨をさらに詳細に調べたい」としている。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1529832567/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/15(金) 12:50:45.31 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180615-00050074-yom-ent

広島県立歴史博物館(福山市)は15日、室町時代初期(14世紀中頃)に描かれたとみられる日本の古地図を確認したと発表した。北海道を除く東北から九州までの旧国名が記され、同博物館は「日本のほぼ全体が記された最古級の地図」としている。

確認されたのは「日本扶桑国(ふそうこく)之(の)図」と書かれた縦122センチ、横57センチの地図。
陸奥国(主に東北地方の東半分)から薩摩、大隅両国(現・鹿児島県)まで68か国の位置や名称などが記され、九州側が上、東北側が下になっている。地図中には赤い線で主要な街道や海路が記され、九州の近くには、当時の沖縄の地名「琉球」を示す「龍及(りゅうきゅう)」の文字もあった。

諸国の描き方から、奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)が原形を作ったと伝えられ、江戸時代まで複製された「行基図」の一種。東日本や西日本が記された行基図は、これまでに鎌倉時代後期(14世紀初頭)のものが見つかっており、「龍及」や「巌嶋(いつくしま)」(広島県)、「明石」(兵庫県)といった当時の地名表記や紙の素材などから、作製時期を推定した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1529034645/続きを読む

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1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/04/22(日) 20:14:45.02 ID:CAP_USER9
気鋭の歴史学者、国際日本文化研究センター(日文研)助教の呉座勇一さん(37)が今春刊行した『陰謀の日本中世史』(角川新書)は、人々の心を捉える歴史上の陰謀論に挑んでいる。「本能寺の変に黒幕がいた」など、研究者らが取り上げない珍説奇説が、社会で一定の支持を得ていることを危惧したからだ。歴史学の手法で徹底批判し、現代のネット社会にあふれる数々の陰謀論にも、警鐘を鳴らしている。(横山由紀子)

心ひかれる「陰謀論」

 前著『応仁の乱』(平成28年、中公新書)が、新書としては異例の47万部突破のベストセラーとなった呉座さん。注目の新刊のテーマは、日本中世史にはびこる数々の陰謀論で、発行部数11万部と好調だ。

 巷(ちまた)には数々の陰謀の「真相」に迫ろうとする本があふれるが、ほとんどが歴史作家や在野の歴史研究家の筆によるものだという。「学界の研究者の多くは、陰謀研究を低級と見下している」と明かしたうえで、人々が陰謀に心をひかれている以上、「学界の人間も正面から取り上げる必要がある」と筆を執った。

「本能寺の変」の真相に迫る

 とりわけ日本史上最大のミステリーとされる「本能寺の変」。「怨恨(えんこん)説」や「黒幕説」など諸説あり、多くの紙幅を割いた。

 織田信長からの非道な折檻(せっかん)や、国替え命令などに怒った明智光秀が謀反を起こしたとされる「怨恨説」。小説やドラマでしばしば採用されるが、「信頼性の低い史料にしか見られない」と反論する。

 怨恨説の根拠とされる事件は、「江戸時代の俗書が創作したもので、歴史的事実ではない」。そうした数々の怨恨話が作られた背景には「江戸時代の人々にとっても、大恩ある君主信長に反旗を翻した事実が不可解だったということだろう」としている。光秀の謀反は、いつの時代も大衆の心をとらえて離さない謎なのだ。

 豊臣秀吉が陰で操っていたという「黒幕説」は、「結果から逆算した陰謀論」にすぎず、「最終的な勝者が全てを予測してコントロールしていたと考える陰謀論の特徴」とみる。

 平治の乱における平清盛、関ケ原の戦いにおける徳川家康の黒幕説なども同様で、「時代を超えて共通のパターンがある」と強調する。

 光秀謀反の動機として注目されるのが、信長の四国政策転換説だ。光秀が交渉役となり関係を保っていた土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏の討伐を信長が決定したことで、面目を失った光秀が謀反を起こしたというもので、近年主流化されつつある。

偉人伝は実像か

 平家討伐で功績を挙げながら兄の源頼朝に追われ、悲惨な最期を遂げた源義経や、冷淡なイメージが強い頼朝の実像、またわが子を将軍に就けようとして応仁の乱を招いたといわれる室町幕府8代将軍の正室・日野富子の悪女説の実態などを、最新の研究に照らして解説している。

 また、家康や信長ら歴史上のリーダーの生涯が、偉人伝としてビジネス本や自己啓発本で取り上げられることについて、「果たして、それが実像なのかどうかが問題」と話す。

 「信長や家康のように明確なビジョンを持て」という言説も、結果的な勝者が、未来を予測していたとみてしまう陰謀論の特徴からくるもので、「家康や信長が全てを見通せていたわけではない。判断ミスや見通しの甘さ、弱点もあったし、しょっちゅうだまされ、何度も存亡の危機に陥っている」と解説する。

 むしろ、「逆境の時のリカバリーや危機管理の手法こそ学ぶべき」と提言する。

真偽見極める思考

 人々は、陰謀論の存在を想像したり、真相を解き明そうとするのが好きだ。しかし、「簡単に信じ、取り込まれてしまう心理、物の考え方が心配」と語る。

 ネット社会の現代には、玉石混交のニュースがあふれる。「反日勢力の陰謀」「安倍政権の陰謀」…など、複雑化する現代社会を陰謀論で説明しようとする危うさもある。陰謀論の特徴を見抜き、「何が本物で、何が間違っているかを見極める論理的思考が大切」としている。



産経WEST 2018.4.22 12:00
http://www.sankei.com/west/news/180422/wst1804220003-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1524395685/続きを読む

1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/04/20(金) 22:24:30.87 ID:CAP_USER9
本願寺中興の祖とされる僧侶、蓮如(れんにょ)(1415~99年)が室町時代後期の明応7(1498)年に記した和歌の草稿が、「大さか」という地名を記す最古の文献とみられることが19日、所蔵する一般財団法人「本願寺文化興隆財団」(大谷暢順(ちょうじゅん)理事長、京都市山科区)の調査で分かった。

「難波」などと呼ばれたそれまでの地名から、現在につながる「大坂(大阪)」の地名が定着していく経緯を探る史料の一つとして、注目を集めそうだ。

草稿は平成23年に財団が古美術商から購入。和歌5首のうち、信心の大切さを詠んだ「みな人の弥陀(みだ)をたのめといふ浪のはやをとたてゝみゆる大さか」など、2首に「大さか」の文字がある。筆者名はないが、専門家の鑑定で、筆跡などから蓮如自筆と判定された。

草稿の日付は、明応7年11月8日。大阪という地名は文献上、蓮如が明応6年11月に信徒らに向けて発した、「御文(おふみ)」「御文章(ごぶんしょう)」などと呼ばれる手紙の文中にある「大坂」が初出とされるが、自筆の原本は未確認で、写本のみが残る。

財団によると、確認されている写本は、息子の実如(じつにょ)の時代に編纂(へんさん)されたとみられる本が最古。大阪という地名を記した文献の成立年代としては、草稿が写本よりも古いと判断した。

蓮如は明応8年3月に死去。和歌には推敲(すいこう)の跡があり、財団の藤田香奈子学芸員は「最晩年に書かれた草稿だが、創意工夫を怠らない、蓮如上人(しょうにん)の性格が表れている」と話す。

草稿は、同財団の吉崎御坊蓮如上人記念館(福井県あわら市)で今月21日~7月28日に行われる、特別展で展示される。



「大阪」の由来 古くは「難波」「浪速」といった表記で、「なにわ」「なみはや」などと呼ばれていた。いつから「おおさか」になったかははっきりしないが、14世紀の文献には「小坂(おさか)」の記述がある。蓮如が「大坂」に坊舎(石山本願寺)を建立した後に広がったともいわれ、江戸時代には浸透。「大阪」の表記は江戸時代には現れ、明治以降に定着した。



産経WEST 2018.4.20 11:45
http://www.sankei.com/west/news/180420/wst1804200032-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1524230670/続きを読む

1: すらいむ ★ 2018/03/09(金) 19:29:15.75 ID:CAP_USER9
10万~20万枚の埋蔵銭発見 埼玉・蓮田、1つのかめからは国内最大級

 埼玉県埋蔵文化財調査事業団は9日、昨年12月25日に同県蓮田市黒浜の「新井堀の内遺跡」で、かめに入った埋蔵銭を発見したと発表した。
 かめの大きさから10万~20万枚の古銭が入っていると推定。
 1つのかめの中から出土した古銭の量としては、過去に神奈川県鎌倉市で出土した約18万枚を抜き、国内最大の量となる可能性があるという。

 新井堀の内遺跡は中世の武家館跡として知られ、事業団は昨年10月に県道の建設工事に伴う発掘調査を行っていた。

 事業団によると、かめの上面から中国の唐の時代の「開元通宝」(初鋳年621年)や明の時代の「永楽通宝」(初鋳年1408年)など19種類の古銭を確認。埋設時期は永楽通宝が多く入っていることから、15世紀以降とした。

(以下略、続きはソースでご確認下さい)
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産経新聞 3/9(金) 18:19
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180309-00000561-san-cul
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1520591355/続きを読む

1: 泥ン ★ 2017/12/13(水) 22:23:04.02 ID:CAP_USER9
人頭大の石が投げ組まれて割られた甕の底部=京都市下京区
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 京都市下京区で、14世紀後半に酒の麹(こうじ)づくりに使われたとみられる壊れた甕(かめ)が出土した。甕の底には石があり、投げ込んで甕を割ったようだ。麹は当時、北野社(北野天満宮)の神人(じにん)(神職)でつくる組織が室町幕府の権威を背景に独占的に製造・販売しており、無断で麹を製造していた現場を神人らが破壊したとみられる。発掘の担当者は「意外と早い時期から北野社の強い独占状況をうかがわせる資料」としている。

 ホテル建設に伴い、民間調査団体の関西文化財調査会が平安京の左京八条四坊二町にあたるJR京都駅東隣の一角約450平方メートルを発掘。南北を走る東洞院大路跡の一部と付属する東側溝跡が出土し、その近くから割れた甕の底部(最大径約30センチ、深さ約30センチ)が3カ所で見つかった。

 形や周囲の土器などから14世紀後半~15世紀前半の甕とみられる。このうち2カ所には人頭大の石が残っていた。

 当時は、麹づくりは平安時代に北野社の神人が結成した「麹座」、酒づくりは酒屋に分かれていた。麹の製造・販売権は、麹座が室町時代の15世紀初めから幕府の権威を背景に独占しており、無断で麹を製造・販売した多数の酒屋を幕府役人の面前で破壊した記述も残っている。

 だが、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、独占状態に反対する延暦寺などの寺院や酒屋が幕府や麹座と真っ向から対立。こうした背景から、幕府は文安元(1444)年、北野社の独占権を撤廃した。

産経WEST 2017.12.13 09:41
http://www.sankei.com/west/news/171213/wst1712130019-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1513171384/続きを読む

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