(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

カテゴリ:日本史 > 室町時代

1: 記憶たどり。 ★ 2018/06/15(金) 12:50:45.31 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180615-00050074-yom-ent

広島県立歴史博物館(福山市)は15日、室町時代初期(14世紀中頃)に描かれたとみられる日本の古地図を確認したと発表した。北海道を除く東北から九州までの旧国名が記され、同博物館は「日本のほぼ全体が記された最古級の地図」としている。

確認されたのは「日本扶桑国(ふそうこく)之(の)図」と書かれた縦122センチ、横57センチの地図。
陸奥国(主に東北地方の東半分)から薩摩、大隅両国(現・鹿児島県)まで68か国の位置や名称などが記され、九州側が上、東北側が下になっている。地図中には赤い線で主要な街道や海路が記され、九州の近くには、当時の沖縄の地名「琉球」を示す「龍及(りゅうきゅう)」の文字もあった。

諸国の描き方から、奈良時代の高僧・行基(ぎょうき)が原形を作ったと伝えられ、江戸時代まで複製された「行基図」の一種。東日本や西日本が記された行基図は、これまでに鎌倉時代後期(14世紀初頭)のものが見つかっており、「龍及」や「巌嶋(いつくしま)」(広島県)、「明石」(兵庫県)といった当時の地名表記や紙の素材などから、作製時期を推定した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1529034645/続きを読む

5a98a7e01f431
1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/04/22(日) 20:14:45.02 ID:CAP_USER9
気鋭の歴史学者、国際日本文化研究センター(日文研)助教の呉座勇一さん(37)が今春刊行した『陰謀の日本中世史』(角川新書)は、人々の心を捉える歴史上の陰謀論に挑んでいる。「本能寺の変に黒幕がいた」など、研究者らが取り上げない珍説奇説が、社会で一定の支持を得ていることを危惧したからだ。歴史学の手法で徹底批判し、現代のネット社会にあふれる数々の陰謀論にも、警鐘を鳴らしている。(横山由紀子)

心ひかれる「陰謀論」

 前著『応仁の乱』(平成28年、中公新書)が、新書としては異例の47万部突破のベストセラーとなった呉座さん。注目の新刊のテーマは、日本中世史にはびこる数々の陰謀論で、発行部数11万部と好調だ。

 巷(ちまた)には数々の陰謀の「真相」に迫ろうとする本があふれるが、ほとんどが歴史作家や在野の歴史研究家の筆によるものだという。「学界の研究者の多くは、陰謀研究を低級と見下している」と明かしたうえで、人々が陰謀に心をひかれている以上、「学界の人間も正面から取り上げる必要がある」と筆を執った。

「本能寺の変」の真相に迫る

 とりわけ日本史上最大のミステリーとされる「本能寺の変」。「怨恨(えんこん)説」や「黒幕説」など諸説あり、多くの紙幅を割いた。

 織田信長からの非道な折檻(せっかん)や、国替え命令などに怒った明智光秀が謀反を起こしたとされる「怨恨説」。小説やドラマでしばしば採用されるが、「信頼性の低い史料にしか見られない」と反論する。

 怨恨説の根拠とされる事件は、「江戸時代の俗書が創作したもので、歴史的事実ではない」。そうした数々の怨恨話が作られた背景には「江戸時代の人々にとっても、大恩ある君主信長に反旗を翻した事実が不可解だったということだろう」としている。光秀の謀反は、いつの時代も大衆の心をとらえて離さない謎なのだ。

 豊臣秀吉が陰で操っていたという「黒幕説」は、「結果から逆算した陰謀論」にすぎず、「最終的な勝者が全てを予測してコントロールしていたと考える陰謀論の特徴」とみる。

 平治の乱における平清盛、関ケ原の戦いにおける徳川家康の黒幕説なども同様で、「時代を超えて共通のパターンがある」と強調する。

 光秀謀反の動機として注目されるのが、信長の四国政策転換説だ。光秀が交渉役となり関係を保っていた土佐の長宗我部(ちょうそかべ)氏の討伐を信長が決定したことで、面目を失った光秀が謀反を起こしたというもので、近年主流化されつつある。

偉人伝は実像か

 平家討伐で功績を挙げながら兄の源頼朝に追われ、悲惨な最期を遂げた源義経や、冷淡なイメージが強い頼朝の実像、またわが子を将軍に就けようとして応仁の乱を招いたといわれる室町幕府8代将軍の正室・日野富子の悪女説の実態などを、最新の研究に照らして解説している。

 また、家康や信長ら歴史上のリーダーの生涯が、偉人伝としてビジネス本や自己啓発本で取り上げられることについて、「果たして、それが実像なのかどうかが問題」と話す。

 「信長や家康のように明確なビジョンを持て」という言説も、結果的な勝者が、未来を予測していたとみてしまう陰謀論の特徴からくるもので、「家康や信長が全てを見通せていたわけではない。判断ミスや見通しの甘さ、弱点もあったし、しょっちゅうだまされ、何度も存亡の危機に陥っている」と解説する。

 むしろ、「逆境の時のリカバリーや危機管理の手法こそ学ぶべき」と提言する。

真偽見極める思考

 人々は、陰謀論の存在を想像したり、真相を解き明そうとするのが好きだ。しかし、「簡単に信じ、取り込まれてしまう心理、物の考え方が心配」と語る。

 ネット社会の現代には、玉石混交のニュースがあふれる。「反日勢力の陰謀」「安倍政権の陰謀」…など、複雑化する現代社会を陰謀論で説明しようとする危うさもある。陰謀論の特徴を見抜き、「何が本物で、何が間違っているかを見極める論理的思考が大切」としている。



産経WEST 2018.4.22 12:00
http://www.sankei.com/west/news/180422/wst1804220003-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1524395685/続きを読む

1: アルカリ性寝屋川市民 ★ 2018/04/20(金) 22:24:30.87 ID:CAP_USER9
本願寺中興の祖とされる僧侶、蓮如(れんにょ)(1415~99年)が室町時代後期の明応7(1498)年に記した和歌の草稿が、「大さか」という地名を記す最古の文献とみられることが19日、所蔵する一般財団法人「本願寺文化興隆財団」(大谷暢順(ちょうじゅん)理事長、京都市山科区)の調査で分かった。

「難波」などと呼ばれたそれまでの地名から、現在につながる「大坂(大阪)」の地名が定着していく経緯を探る史料の一つとして、注目を集めそうだ。

草稿は平成23年に財団が古美術商から購入。和歌5首のうち、信心の大切さを詠んだ「みな人の弥陀(みだ)をたのめといふ浪のはやをとたてゝみゆる大さか」など、2首に「大さか」の文字がある。筆者名はないが、専門家の鑑定で、筆跡などから蓮如自筆と判定された。

草稿の日付は、明応7年11月8日。大阪という地名は文献上、蓮如が明応6年11月に信徒らに向けて発した、「御文(おふみ)」「御文章(ごぶんしょう)」などと呼ばれる手紙の文中にある「大坂」が初出とされるが、自筆の原本は未確認で、写本のみが残る。

財団によると、確認されている写本は、息子の実如(じつにょ)の時代に編纂(へんさん)されたとみられる本が最古。大阪という地名を記した文献の成立年代としては、草稿が写本よりも古いと判断した。

蓮如は明応8年3月に死去。和歌には推敲(すいこう)の跡があり、財団の藤田香奈子学芸員は「最晩年に書かれた草稿だが、創意工夫を怠らない、蓮如上人(しょうにん)の性格が表れている」と話す。

草稿は、同財団の吉崎御坊蓮如上人記念館(福井県あわら市)で今月21日~7月28日に行われる、特別展で展示される。



「大阪」の由来 古くは「難波」「浪速」といった表記で、「なにわ」「なみはや」などと呼ばれていた。いつから「おおさか」になったかははっきりしないが、14世紀の文献には「小坂(おさか)」の記述がある。蓮如が「大坂」に坊舎(石山本願寺)を建立した後に広がったともいわれ、江戸時代には浸透。「大阪」の表記は江戸時代には現れ、明治以降に定着した。



産経WEST 2018.4.20 11:45
http://www.sankei.com/west/news/180420/wst1804200032-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1524230670/続きを読む

1: すらいむ ★ 2018/03/09(金) 19:29:15.75 ID:CAP_USER9
10万~20万枚の埋蔵銭発見 埼玉・蓮田、1つのかめからは国内最大級

 埼玉県埋蔵文化財調査事業団は9日、昨年12月25日に同県蓮田市黒浜の「新井堀の内遺跡」で、かめに入った埋蔵銭を発見したと発表した。
 かめの大きさから10万~20万枚の古銭が入っていると推定。
 1つのかめの中から出土した古銭の量としては、過去に神奈川県鎌倉市で出土した約18万枚を抜き、国内最大の量となる可能性があるという。

 新井堀の内遺跡は中世の武家館跡として知られ、事業団は昨年10月に県道の建設工事に伴う発掘調査を行っていた。

 事業団によると、かめの上面から中国の唐の時代の「開元通宝」(初鋳年621年)や明の時代の「永楽通宝」(初鋳年1408年)など19種類の古銭を確認。埋設時期は永楽通宝が多く入っていることから、15世紀以降とした。

(以下略、続きはソースでご確認下さい)
e340e2815072d89f6531ebfa5fdfe5b1_1520637981_1
産経新聞 3/9(金) 18:19
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180309-00000561-san-cul
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1520591355/続きを読む

1: 泥ン ★ 2017/12/13(水) 22:23:04.02 ID:CAP_USER9
人頭大の石が投げ組まれて割られた甕の底部=京都市下京区
wst1712130019-p1


 京都市下京区で、14世紀後半に酒の麹(こうじ)づくりに使われたとみられる壊れた甕(かめ)が出土した。甕の底には石があり、投げ込んで甕を割ったようだ。麹は当時、北野社(北野天満宮)の神人(じにん)(神職)でつくる組織が室町幕府の権威を背景に独占的に製造・販売しており、無断で麹を製造していた現場を神人らが破壊したとみられる。発掘の担当者は「意外と早い時期から北野社の強い独占状況をうかがわせる資料」としている。

 ホテル建設に伴い、民間調査団体の関西文化財調査会が平安京の左京八条四坊二町にあたるJR京都駅東隣の一角約450平方メートルを発掘。南北を走る東洞院大路跡の一部と付属する東側溝跡が出土し、その近くから割れた甕の底部(最大径約30センチ、深さ約30センチ)が3カ所で見つかった。

 形や周囲の土器などから14世紀後半~15世紀前半の甕とみられる。このうち2カ所には人頭大の石が残っていた。

 当時は、麹づくりは平安時代に北野社の神人が結成した「麹座」、酒づくりは酒屋に分かれていた。麹の製造・販売権は、麹座が室町時代の15世紀初めから幕府の権威を背景に独占しており、無断で麹を製造・販売した多数の酒屋を幕府役人の面前で破壊した記述も残っている。

 だが、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、独占状態に反対する延暦寺などの寺院や酒屋が幕府や麹座と真っ向から対立。こうした背景から、幕府は文安元(1444)年、北野社の独占権を撤廃した。

産経WEST 2017.12.13 09:41
http://www.sankei.com/west/news/171213/wst1712130019-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1513171384/続きを読む

1: サーバル ★ 2017/08/21(月) 13:46:36.10 ID:CAP_USER9
8/21(月) 10:29配信

朝日新聞デジタル
 室町時代の1498(明応7)年に九州で発生したとされる「日向灘地震」は、実際には存在しなかった可能性が高いとする調査結果を、東京大地震研究所の原田智也特任助教らがまとめた。理科年表などにも掲載されている地震だが、根拠となった軍記は「記述の信頼性が非常に低い」という。

 マグニチュード(M)7~7・5の日向灘地震があったという説は、江戸時代の読み物「九州軍記」に描かれた地震被害に基づいて1987年に提唱された。九州で山崩れ、地面が裂けるなどの現象が起き、民家はすべて壊れ死者多数とされた。

 原田さんらは今回、九州軍記の信頼性について、改めて調べ直した。軍記は1601年に書かれ、別の人が修正を加えて1607年に完成。地震後100年以上経ってから、できていた。被害地域の名や人的な被害数などの具体的な記述がないうえ、同じ時刻に地震が起きたという記録は、ほかの史料には見当たらないことが分かった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170821-00000008-asahi-soci
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1503290796/続きを読む

1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2017/08/05(土) 19:39:37.23 ID:CAP_USER9
あの偉人たちは「定年後」どんな生活をしていたのだろうか? まずは、征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~1199)。日本の歴史の転換を成し遂げた人物であるが、その晩年は謎に包まれている。歴史研究家の河合敦氏(多摩大学客員教授)が解説する。

「鎌倉幕府の正史『吾妻鑑』には、頼朝が死ぬ前後の1196年1月から1199年1月までの3年間の記述が欠落しているのです。同時代の他の文献には、頼朝の死は“急死”とも“過労”とも“糖尿病”とも記されている。

『吾妻鑑』では死因を“相模川大橋の落成式の帰りに落馬し、それがもとで亡くなった”としていますが、それが記されたのは頼朝が死んでから13年後です。つまり、死因は定かでないうえに、『吾妻鑑』は幕府に都合良く書き換えられた可能性があります。そのため、頼朝は暗殺されたという説も根強いのです」

「三方一両損」の“大岡裁き”で名を残す江戸時代の町奉行・大岡忠相(1677~1752)はこんな目に遭った。

 忠相が町奉行の時代、江戸では米価が低迷しているのに、その他の物価が上がるという現象が起きた。そうなると、米で給料を受け取る武士たちは生活に困る。

「忠相は“両替商が金と銀の為替を不正に操作している”と思い込み、両替商を厳しく処罰しました。怒った両替商たちが幕府の高官に談判した結果、忠相は旗本でありながら大名の役職である寺社奉行に配置転換されました。

その頃の寺社奉行は若手大名のポスト。60歳を過ぎて赴任した忠相は、若い奉行たちから『ここはあなたのような人が来るところではない』と追い返されるなど、“陰湿なイジメ”を受けたという記録があります」(前出・河合氏)

 名裁判官といえど、争いの当事者になればその能力は役に立たなかったようだ。

 頓知(とんち)の問答で知られ、アニメにもなった禅僧の一休宗純(1394~1481)は、臨終の間際に「死にとうない」と、率直ではあるがごく普通のつまらない言葉を残している。死に際まで頓知を利かせる余裕はなかったのだろうか。

※週刊ポスト2017年8月11日号


https://www.news-postseven.com/archives/20170805_600717.html?PAGE=1#container
2017.08.05 16:00
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1501929577/続きを読む

1: 記憶たどり。 ★ 2017/07/14(金) 10:18:33.75 ID:CAP_USER9
https://www.nikkansports.com/general/news/1855067.html

日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門ではなかった? 
ラーメン史を塗り替える新たな資料が見つかり、新横浜ラーメン博物館(横浜市港北区)で14日からパネル展示される。定説より約200年さかのぼる室町時代としており、博物館は「歴史を書き換える大発見だ」としている。博物館によると、これまでは江戸時代の僧侶の日記を根拠に、水戸藩主の徳川光圀が1697年(元禄10)に食べたのが最も古い記録とされていた。

室町時代の僧侶の日記「蔭涼軒(いんりょうけん)日録」の中に、中国のレシピを参考に1488年に「経帯麺」を調理し、来客に振る舞ったとの記述があると、麺の歴史について調べていた民間人から情報提供があった。

中華麺の定義は、かん水を使用していること。このレシピを調べたところ、「経帯麺」は小麦粉とかん水を使うことが分かり、日本初のラーメンの可能性があると結論付けた。
スープの作り方は書かれていないが、担当者は「シイタケや梅昆布のだしをかけて
食べていたのではないか」としている。

全国各地の味を楽しむことができるフードテーマパークとしても知られる同博物館は、1階展示場をリニューアルし、室町時代から現在までのラーメンの歴史などを紹介する。
入館料は中学生以上310円、小学生と60歳以上は100円。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1499995113/続きを読む

↑このページのトップヘ