(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。日本史世界史などの歴史板からまとめています。他にもなんj、vipから歴史関係のスレをまとめています。 良かったらご覧ください。

カテゴリ:日本史 > 室町時代

1: 泥ン ★ 2017/12/13(水) 22:23:04.02 ID:CAP_USER9
人頭大の石が投げ組まれて割られた甕の底部=京都市下京区
wst1712130019-p1


 京都市下京区で、14世紀後半に酒の麹(こうじ)づくりに使われたとみられる壊れた甕(かめ)が出土した。甕の底には石があり、投げ込んで甕を割ったようだ。麹は当時、北野社(北野天満宮)の神人(じにん)(神職)でつくる組織が室町幕府の権威を背景に独占的に製造・販売しており、無断で麹を製造していた現場を神人らが破壊したとみられる。発掘の担当者は「意外と早い時期から北野社の強い独占状況をうかがわせる資料」としている。

 ホテル建設に伴い、民間調査団体の関西文化財調査会が平安京の左京八条四坊二町にあたるJR京都駅東隣の一角約450平方メートルを発掘。南北を走る東洞院大路跡の一部と付属する東側溝跡が出土し、その近くから割れた甕の底部(最大径約30センチ、深さ約30センチ)が3カ所で見つかった。

 形や周囲の土器などから14世紀後半~15世紀前半の甕とみられる。このうち2カ所には人頭大の石が残っていた。

 当時は、麹づくりは平安時代に北野社の神人が結成した「麹座」、酒づくりは酒屋に分かれていた。麹の製造・販売権は、麹座が室町時代の15世紀初めから幕府の権威を背景に独占しており、無断で麹を製造・販売した多数の酒屋を幕府役人の面前で破壊した記述も残っている。

 だが、15世紀中ごろに幕府の権力が低下すると、独占状態に反対する延暦寺などの寺院や酒屋が幕府や麹座と真っ向から対立。こうした背景から、幕府は文安元(1444)年、北野社の独占権を撤廃した。

産経WEST 2017.12.13 09:41
http://www.sankei.com/west/news/171213/wst1712130019-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1513171384/続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

1: サーバル ★ 2017/08/21(月) 13:46:36.10 ID:CAP_USER9
8/21(月) 10:29配信

朝日新聞デジタル
 室町時代の1498(明応7)年に九州で発生したとされる「日向灘地震」は、実際には存在しなかった可能性が高いとする調査結果を、東京大地震研究所の原田智也特任助教らがまとめた。理科年表などにも掲載されている地震だが、根拠となった軍記は「記述の信頼性が非常に低い」という。

 マグニチュード(M)7~7・5の日向灘地震があったという説は、江戸時代の読み物「九州軍記」に描かれた地震被害に基づいて1987年に提唱された。九州で山崩れ、地面が裂けるなどの現象が起き、民家はすべて壊れ死者多数とされた。

 原田さんらは今回、九州軍記の信頼性について、改めて調べ直した。軍記は1601年に書かれ、別の人が修正を加えて1607年に完成。地震後100年以上経ってから、できていた。被害地域の名や人的な被害数などの具体的な記述がないうえ、同じ時刻に地震が起きたという記録は、ほかの史料には見当たらないことが分かった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170821-00000008-asahi-soci
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1503290796/続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

1: 右大臣・大ちゃん之弼 ★ 2017/08/05(土) 19:39:37.23 ID:CAP_USER9
あの偉人たちは「定年後」どんな生活をしていたのだろうか? まずは、征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147~1199)。日本の歴史の転換を成し遂げた人物であるが、その晩年は謎に包まれている。歴史研究家の河合敦氏(多摩大学客員教授)が解説する。

「鎌倉幕府の正史『吾妻鑑』には、頼朝が死ぬ前後の1196年1月から1199年1月までの3年間の記述が欠落しているのです。同時代の他の文献には、頼朝の死は“急死”とも“過労”とも“糖尿病”とも記されている。

『吾妻鑑』では死因を“相模川大橋の落成式の帰りに落馬し、それがもとで亡くなった”としていますが、それが記されたのは頼朝が死んでから13年後です。つまり、死因は定かでないうえに、『吾妻鑑』は幕府に都合良く書き換えられた可能性があります。そのため、頼朝は暗殺されたという説も根強いのです」

「三方一両損」の“大岡裁き”で名を残す江戸時代の町奉行・大岡忠相(1677~1752)はこんな目に遭った。

 忠相が町奉行の時代、江戸では米価が低迷しているのに、その他の物価が上がるという現象が起きた。そうなると、米で給料を受け取る武士たちは生活に困る。

「忠相は“両替商が金と銀の為替を不正に操作している”と思い込み、両替商を厳しく処罰しました。怒った両替商たちが幕府の高官に談判した結果、忠相は旗本でありながら大名の役職である寺社奉行に配置転換されました。

その頃の寺社奉行は若手大名のポスト。60歳を過ぎて赴任した忠相は、若い奉行たちから『ここはあなたのような人が来るところではない』と追い返されるなど、“陰湿なイジメ”を受けたという記録があります」(前出・河合氏)

 名裁判官といえど、争いの当事者になればその能力は役に立たなかったようだ。

 頓知(とんち)の問答で知られ、アニメにもなった禅僧の一休宗純(1394~1481)は、臨終の間際に「死にとうない」と、率直ではあるがごく普通のつまらない言葉を残している。死に際まで頓知を利かせる余裕はなかったのだろうか。

※週刊ポスト2017年8月11日号


https://www.news-postseven.com/archives/20170805_600717.html?PAGE=1#container
2017.08.05 16:00
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1501929577/続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

1: 記憶たどり。 ★ 2017/07/14(金) 10:18:33.75 ID:CAP_USER9
https://www.nikkansports.com/general/news/1855067.html

日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門ではなかった? 
ラーメン史を塗り替える新たな資料が見つかり、新横浜ラーメン博物館(横浜市港北区)で14日からパネル展示される。定説より約200年さかのぼる室町時代としており、博物館は「歴史を書き換える大発見だ」としている。博物館によると、これまでは江戸時代の僧侶の日記を根拠に、水戸藩主の徳川光圀が1697年(元禄10)に食べたのが最も古い記録とされていた。

室町時代の僧侶の日記「蔭涼軒(いんりょうけん)日録」の中に、中国のレシピを参考に1488年に「経帯麺」を調理し、来客に振る舞ったとの記述があると、麺の歴史について調べていた民間人から情報提供があった。

中華麺の定義は、かん水を使用していること。このレシピを調べたところ、「経帯麺」は小麦粉とかん水を使うことが分かり、日本初のラーメンの可能性があると結論付けた。
スープの作り方は書かれていないが、担当者は「シイタケや梅昆布のだしをかけて
食べていたのではないか」としている。

全国各地の味を楽しむことができるフードテーマパークとしても知られる同博物館は、1階展示場をリニューアルし、室町時代から現在までのラーメンの歴史などを紹介する。
入館料は中学生以上310円、小学生と60歳以上は100円。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1499995113/続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

4b1e785c
219: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/07/07(金) 11:26:23.16 ID:qROtHZIcr0707
室町幕府って何が駄目やったの
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1499392425/
続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/06/09(金) 13:00:14.39 ID:CAP_USER9
京都市中京区新町蛸薬師北西角の発掘調査で、鎌倉時代末-室町時代初頭とみられる地下室(室(むろ))が見つかった。
床は平らな石で固められており、有力な商人が設けた可能性がある。

室町時代以降に捨てられた灰やごみから土器や陶磁器片をはじめ、魚や動物の骨が多数出土。
研究者らは「中世の商人の食生活など暮らしぶりを知る上で貴重だ」と注目している。

民間調査会社「京都平安文化財」が3~5月に調査した。
室は南北2・1メートル、東西5・4メートルで、14世紀ごろに造られたとみられる。

床に直径約20センチの石を並べ、その周囲に小石を敷き詰め、排水用の穴も設けられていた。
市文化財保護課は「中世の室は土の床が多く、これほど丁寧に石で整地した室は珍しい」としている。

室は壊され埋められており、その上に灰や炭などが何層も重なっていた。ごみ捨て場になったとみられ、鎌倉-室町時代の土器や輸入物を含む陶磁器の破片、貨幣のほか、食べられたとみられる魚や動物の骨などが大量に含まれていた。

調査地が面する町尻小路(新町通)は、中世の下京で経済中心地の一つだった
。周辺の六角町では、琵琶湖の魚の専売特権を持つ集団「粟津橋本供御人(くごにん)」が店を出していたことが知られている。

奈良大の河内将芳教授(日本中世史)は「当時は魚屋以外にも多様な店が軒を連ねていたはず。
室を備えた何らかの大規模な店があった」と推測する。
高価な中国の陶磁器片が出土しており、「有力な商人たちの経済活動を裏付けられる」と期待する。

見つかった骨には、ハモやサワラ、ブリなど海で捕れる魚のほか、犬やウサギなどの動物、ツルかコウノトリとみられる大型の鳥などが含まれていた。

東海大の丸山真史講師(動物考古学)は「京都中心部の食生活の変遷を知る上でも貴重な発見だ」と注目する。

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170609000061

出土した魚や動物などの骨。鎌倉-室町時代の人々の幅広い食生活がうかがえる
20170609113301hakkutusita
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496980814/続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

1: 名無しさん@おーぷん 2017/05/22(月)21:25:01 ID:Ldu
そもそも何人いたかもわからん

続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

09737f94
1: 名無し募集中。。。@\(^o^)/ 2017/04/13(木) 00:16:15.10 0
平清盛は大河になったのに
日本史でも足利義満ほどスケールのでかい人物いなくね?
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/morningcoffee/1492010175/ 続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ