(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: 宗教

1: みつを ★ 2017/08/08(火) 17:50:53.36 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3138473?act=all

【8月8日 AFP】イスラエルの考古学者は7日、北部のガリラヤ湖(Sea of Galilee)近くで発掘調査を行っている同国と米国の考古学者チームが、聖ペテロ(Saint Peter)らイエス・キリスト(Jesus Christ)の使徒3人の生まれ育った町を発見した可能性があると明らかにした。

 イスラエルのガリラヤ考古学キネレット研究所(Kinneret Institute for Galilean Archeaology)の考古学者、モディハイ・アビアム(Mordechai Aviam)氏によると、ガリラヤ湖(別名・ティベリアス湖Lake Tiberias)付近で、帝政ローマ時代にさかのぼり、その後失われた町ユリアス(Julias)が見つかったもようだ。

 1世紀に帝政ローマに仕えたユダヤ人の歴史家、フラウィウス・ヨセフス(Flavius Josephus)は、ユリアスは西暦30年ごろ、新約聖書に登場するベツサイダ(Bethsaid)の跡地に造られたと記している。ヨハネの福音書(Gospel of John)によると、聖ペテロは漁村のベツサイダに生まれた。

 キリスト教徒は漁師出身の聖ペテロをイエス最初の弟子の一人と認識しており、カトリック教会では初代教皇とされている。同じく12使徒である聖ピリポ(Saint Philip)、ペテロと兄弟の聖アンデレ(Saint Andrew)も、ベツサイダに生まれたか住んでいたと考えられている。

 考古学者らは長年、ユリアスがあった場所の特定に取り組み、主な候補地を3か所に絞り込んでいた。

 アビアム氏はAFPに対し、これまでに発掘が行われたのはその中で1か所だけだが、その場所が使徒3人のふるさととみられると説明している。

「陶器の破片や硬貨、公衆浴場跡を発見した。小さな村ではなく、ユリアスの可能性がある町だということを示しているとみられる。これらの発掘成果に基づくと、ここが恐らくベツサイダがあった場所だと考えられる」(同氏)

 アビアム氏によると、数キロ離れた場所でも作業が進められており、ローマ時代以前の痕跡がさらに見つかればベツサイダがあった場所かどうかの確認に寄与するとみている。(c)AFP

2017/08/08 11:41(ティベリア/イスラエル)

イスラエル北部のガリラヤ湖近くの発掘現場(2017年8月6日撮影)。(c)AFP/MENAHEM KAHANA
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1502182253/続きを読む
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1: ニライカナイφ ★ 2017/07/14(金) 22:37:44.79 ID:CAP_USER9
第一次大戦中にポルトガル中部ファティマに聖母マリアが現れたと伝えられる「ファティマの奇跡」から100年を迎えたのを機に、ファティマの聖母像が9月、「涙を流したマリア像」で知られる秋田市添川湯沢台のカトリック女子修道院「聖体奉仕会」にやってくる。
「東西の奇跡」が対面する場で祈りをささげようと、国内外から多くの巡礼者が訪れそうだ。

■ 3つの予言

ファティマの奇跡は1917年5月13日、ファティマで3人の羊飼いの子供の前に聖母マリアが現れ、毎月13日に同じ場所に来るよう告げたことから始まる伝承だ。
7月13日にマリアは3つの予言をしたとされる。10月13日には太陽が急降下したり回転するのを数万人の群衆が目撃したという。
ローマ法王庁(バチカン)は30年、ファティマでの出来事を奇跡である「聖母の出現」と公認した。

法王庁は42年、3つの予言のうち第1と第2の予言を公表。
その内容は、第一次大戦の終了と第二次大戦の開戦、共産主義の害悪を意味すると読める。

第3の予言は長く秘密にされてきたが、2000年に公表された。
「白い衣をまとった司教が殺される」という内容で、「聖母出現」からちょうど64年後の1981年5月13日に起きたローマ法王ヨハネ・パウロ2世の暗殺未遂事件を予言したと解釈されている。
今年5月、法王フランシスコは100周年を記念してファティマを訪れた。

■ 海外で有名

一方、秋田の聖体奉仕会の聖母像は台座を含めた高さ120センチの木彫りの像。
昭和50(1975)年1月4日の朝、両目に涙が浮かんでいるのに修道女が気付いた。

以来、56年9月15日まで101回、涙を流し、当時の高田景次秋田市長も含め約500人が目撃したという。
その液体は秋田大と岐阜大の法医学教室によって「ヒトの体液」と鑑定された。

カトリック教徒の間では「聖母の出現」ととらえる人がいる一方、疑問視する声もあったが、秋田県を管轄する新潟教区司教は59年、「秋田の聖母に対して崇敬をあらわすことを禁じない」との書簡を発表して事実上公認。
法王庁のラッツィンガー枢機卿(後の法王ベネディクト16世)に受理された。
この聖母像は「アワ・レディー・オブ・アキタ」(秋田の聖母)として、日本より海外で有名だ。

■ “集客”に期待

ファティマと秋田はともに北緯39度線近くにあり、「奇跡の共通性」を指摘する声もある。
秋田に来る聖母像はファティマの「聖母出現」100年を記念して新たに作られた。
ファティマの聖堂にあるものと同じ大きさで、冠を除いた高さは105センチ。

既に日本国内を巡回していて、100周年の5月13日にはカトリック関口教会(東京都文京区)でミサが行われた。
最終的にはカトリック幟町(のぼりちょう)教会(広島市)に納められる。

聖体奉仕会では9月14、15の両日に像が安置され、法王庁のジョセフ・チェノットゥ駐日大使も参列してミサなどが行われる。
国内外から数百人の巡礼者が見込まれるという。

聖体奉仕会の小川恵子会長は「世界中がファティマの聖母ご出現100年を大事にする中、秋田に聖母像が来るのは意義深い。
私たちの信仰生活に生かしたい」と話している。

カトリック教徒以外も注目している。
秋田県や秋田市は以前から聖母像の“集客力”に期待。地元ホテルの中には、聖体奉仕会までの送迎無料の「巡礼者特別プラン」を設けているところもある。

写真:ファティマの聖堂にある聖母像(左、ロイター)と秋田・聖体奉仕会の聖母像
trv1707130004-p1
http://www.sankei.com/life/news/170713/trv1707130004-n1.html
http://www.sankei.com/life/news/170713/trv1707130004-n2.html
http://www.sankei.com/life/news/170713/trv1707130004-n3.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1500039464/続きを読む
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1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2017/06/26(月) 06:36:05.94 ID:YCmES1rO0
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http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1498426565/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/05/30(火) 20:56:05.55 ID:CAP_USER9
https://www.j-cast.com/2017/05/30299276.html?p=all

全国から多くの参拝客が集まる「出雲大社」(島根県出雲市)の正式な読み方は、 「いづもたいしゃ」ではなかった――。そんな指摘がツイッターに寄せられ、「全然知らなかった」などと反響を呼んでいる。

では、出雲大社の「正式な読み方」とは何なのか。J-CASTニュースが2017年5月30日、出雲大社の担当者に話を聞くと「正式には、『いづもおおやしろ』と読みます」と話した。

■「ずっと『いづもたいしゃ』だと...」

出雲大社の「読み方」が話題になったのは、あるツイッターユーザーが5月11日、

「出雲大社の読み方は『いずもたいしゃ』じゃなくて『いづもおおやしろ』だぞ」

と指摘したのがきっかけだ。この投稿が複数のネットメディアで紹介されると、ツイッターやネット掲示板には、

「全然知らなかった」
「ずっと『いづもたいしゃ』だと思っていました...」
「長年人間やってきて今初めて知った事実に衝撃」

などと「初めて知った」との反響が相次いで上がった。

確かに、出雲大社の公式ウェブサイトのアドレスは「izumooyashiro.or.jp」。
サイト上の「よくあるご質問」ページでも、「一般的には『いづもたいしゃ』と申しておりますが、正式には『いづもおおやしろ』です」と説明されている。

では、「いづもたいしゃ」と読むことは「間違い」なのだろうか。出雲大社の担当者は5月30日の取材に対し、

「正式な読み方ではありませんが、決して間違いではありません。実際、私たちも電話での応対などの場合では、呼びやすい『いづもたいしゃ』という読み方を使う場合もあります」

と話す。ただ、式典など正式な場では、必ず「いづもおおやしろ」と読んでいるという。

■「分社」の場合は「いづもたいしゃ」

だが、茨城県笠間市にある「常陸国 出雲大社」の正式な読み方は、
「ひたちのくに いづもたいしゃ」。この神社は1992年、島根県の出雲大社の「分社」として創建。
その後、2014年9月に本社から「独立」し、単独の宗教法人となった。

なぜ、こちらの場合は正式名称も「いづもたいしゃ」なのだろうか。「常陸国 出雲大社」の高橋正重(ただしげ)権宮司は取材に対し、

「そもそも、『大社(おおやしろ)』という言葉は、島根県(出雲市)の出雲大社だけを指すものです。なので、私どもだけではなく、島根県の出雲大社から『分社』した神社はすべて、『おおやしろ』ではなく『たいしゃ』と読むのです」

と説明した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496145365/続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/05/29(月) 22:52:30.70 ID:CAP_USER9
■ハスの花上に仏の名 国道拡幅工事で

佐賀市大和町梅野で国道263号の拡幅工事のため道沿いにある岩壁の山林を伐採したところ、約340年前の磨崖碑が見つかった。
縦約5メートル、横約10メートルの花こう岩で「南無大悲觀世音菩薩」と彫られている。
台座に書かれた年号から江戸時代の1674(延宝2)年に作られたとみられる。佐賀市内で磨崖碑の確認は初めて。

工事前は樹木で覆われていたが、昨年9月に着工後の伐採で姿を現した。
同10月ごろ、佐賀市教委の文化振興課職員が現地を視察し、ハスの花の上に仏の名前が刻まれていることなどから磨崖碑と判断した。

磨崖碑は、信仰の対象として自然の岩壁に仏教に関する文字が直接彫られているものを表す。岩壁に仏の顔などが彫られている場合は磨崖仏とされる。

県文化財課などによると、磨崖仏は、県指定文化財の「鵜殿石仏群」(唐津市相知町)のほか、「如意輪観音彫像」(佐賀市久保泉町)、「立石観音磨崖仏」(唐津市相知町)などがある。

今回見つかった磨崖碑は拡幅工事の区間内にあるため、計画を見直して現地保存や移転して保存するか、取り壊して予定通り工事を進めるか検討が必要とされ、工事発注者の佐賀土木事務所は市教委の調査結果と意向を踏まえ判断するとしている。

■保存か取り壊しか 文化財価値市教委判断へ

保存か、取り壊しか。佐賀市大和町梅野で見つかった江戸時代の磨崖碑。
地元では1953年ころまで「羅漢さん」として信仰されていたという。

市教委は文化財調査をして「可能な限り保存したい」との意向だが、現計画で国道を改良するためには取り壊しが避けられず、工事発注者の佐賀土木事務所は工期もにらみながら市教委の判断を注視している。

国道263号の拡幅工事は約300メートルの区間。道幅(約7メートル)が狭く、見通しの悪い道路を約13メートルまで拡幅し、ドライバーの視界確保や歩道整備を目的に実施している。12月完了予定で、総事業費は約2億円。

佐賀土木事務所は当初、2013年度の事業着手時に工事区域に石碑があることは把握していた。
ただ、磨崖碑であることまでは確認できず、写真などによる記録保存の状態で取り壊す方針だったという。
現在、磨崖碑周辺を避けて可能な区域から優先的に工事を進めている。

市文化振興課によると、磨崖碑を取り壊して拡幅工事を進めるか、保存する場合は移設や工事計画の見直しが考えられる。
希少性や時代背景など文化財の価値を総合的に判断し、市の指定文化財登録の可能性もあるという。移設する場合、多額の費用も必要となる。

再び姿を見せた磨崖碑に、佐賀市大和町八反原地区の古賀伸義自治会長(66)は「保存か取り壊しか、二者択一の選択は難しい」と戸惑いを見せる。「過疎化が進む地区で観光資源の一つとして保存はしてもらいたい。
一方で道が狭く、ジョギングや歩行者は危ない側面もある。歩道だけでも確保するなど、さまざまな選択肢を検討してほしい」と要望する。

少年時代を近くで過ごしたという西据廣さん(74)=三養基郡基山町=は「私が小さい頃は羅漢さんと呼ばれていた」と言い、かつての佐賀郡松梅村下田から20所帯が集まる羅漢さん祭りも催されていたという。「磨崖碑はそのまま保存してほしい。なくなってしまうのはさびしく、代々守ってきた先祖に対して申し訳ない」と保存を切望する。

市文化振興課は「有識者の意見を聞いて、文化財としての価値を見極め、早めに結論を出したい」とする。
佐賀土木事務所は「市側の判断を待ちたい」としながらも「既に工事に多少の遅れが出始めている」と気をもんでいる。

http://www.saga-s.co.jp/news/saga/10101/433347

国道263号の拡幅工事で確認された磨崖碑=佐賀市大和町梅野
SAG2017052999000099_id1_20170529074546
現場地図
SAG2017052999000099_id2_20170529074546
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496065950/続きを読む
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1: ばーど ★ 2017/05/28(日) 20:55:57.34 ID:CAP_USER9
福井県勝山市と大野市にまたがる経ケ岳山頂(1625メートル)で発見され「越前国平泉寺」の銘が刻まれた経筒(きょうづつ)が、27日から勝山市の白山平泉寺歴史探遊館まほろばで公開。
勝山市で公開されるのは発見当時以来20年ぶり。経筒は両市が帰属を巡って綱引きした経緯があり、今も結論が出ていない。

経筒は1997年、経ケ岳山頂の経塚の盛石に挟まっていたのを、松岡町(現永平寺町)在住の登山者が発見した。
勝山、大野市境の稜線(りょうせん)上だったことから当時、両市が帰属権利を互いに主張。現地調査も行ったが結論が出ず、発見者が持ち込んだ現在の永平寺町教委が今も保管している。

経筒は2点あり、ともに青銅製で高さ15センチ(13世紀)と10センチ(1522年)。小さい経筒には表面に金メッキが施され、側面には「平泉寺」の銘文が刻まれている。ふたにはハスの花の文様がある。
銘文からは甲斐国(山梨県)の僧、竹陰(ちくいん)が経典を納め、平泉寺で修行していたとみられる上野国(群馬県)出身の願秀(がんしゅう)に託したか、経ケ岳に案内させ埋めたことがうかがえる。

経筒が白山禅定道とは外れた経ケ岳から見つかったことは、経ケ岳が平泉寺から広がる白山信仰の重要な霊場として存在していたことを裏付ける歴史的な価値があるとみられる。

経筒は白山信仰に関係した貴重な史料として関係者の認識は共通している。
「平泉寺」の刻印がある経筒は群馬県から1件発見されているものの県内ではこれしかなく、保管している永平寺町教委も文化財級の価値は十分にあるとみている。

ただ帰属がはっきりしない以上「うちでは指定できない」(同教委)と、歴史的背景などの詳しい調査は宙に浮いた格好だ。
勝山市教委では「本来平泉寺のあった場所で展示することで、この史料を理解してもらいやすくなる」と話し、今回の展示をきっかけに事態が進展することを期待している。

勝山市内では発見直後に数日間公開されただけで、今回初めて白山開山1300年を記念した企画展で本格的に展示される。6月28日まで。

経ケ岳で20年前に発見された経筒(手前2点)。短い経筒には「越前国平泉寺」の刻印がある
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配信 2017年 5月28日
福井新聞
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/199260
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1495972557/続きを読む
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1: ニライカナイφ ★ 2017/05/29(月) 01:48:36.78 ID:CAP_USER9
〈スサノオを祀った神社は被災を免れている……〉

近頃ネットを駆け巡るオカルト話。

かと思えば、元を辿れば東京工業大学 社会理工学研究科のグループが土木学会に発表した論文。

「私達が学生時代、6年前の論文です。
東日本大震災の支援活動を行っている際、被災を免れた鳥居(写真)が目に付いて研究しました」

とは神戸高専の高田知紀准教授だ。

論文では、宮城県沿岸部に鎮座する神社の内、スサノオを祀る神社、熊野系神社、八幡系神社のほとんどが津波を免れた一方で、アマテラスを祀る神社の大半が被災したことが確認されたというもの。

皇室の祖先は御利益がない?

「そうじゃないんです。
スサノオは斐伊川(ひいかわ)に住むヤマタノオロチを退治したと古事記にありますが、川の氾濫を例えた話といわれます。
スサノオは水害など自然災害、震災を治める神だからこそ、そうした災いに遭わない場所に祀られたと考えられるのです」(同)

理工系大学とは思えぬが、「我々の教授は“地を這う哲学者”ですから」(同)

『生命と風景の哲学』などの著書もあり、東大文学部哲学科出身ながら、東工大の教授(3月に定年で退官)を務めた桑子敏雄氏である。

画像:鳥居の手前で津波が止まった(神戸高専高田知紀研究室HPより)
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「今ごろ話題に上がるのは、巨大な防波堤などハード面が整備されてきて、心構えなどのソフト的欲求が出てきたからかも」(桑子氏)

神社と震災の研究はその後、和歌山、四国へと発展。

「南海トラフ地震などの津波災害リスクを、平安時代の延喜式に記載された神社に着目して分析しました。
沿岸部の神社は高知では555社、徳島では308社が津波を回避しうる」(同)

古社に逃げれば安全?

「いえ、地域の神社をよく見て欲しい。
それが避難に繋がるヒントになればいいし、古来からの神社空間の維持に繋がります」(同)

安全神話ならぬ、本物の神話に目を向けてみるか。

http://news.livedoor.com/article/detail/13119178/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1495990116/続きを読む
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1: 紅あずま ★  2017/05/26(金) 22:56:00.85 ID:CAP_USER9
奈良 薬師寺 中世の戦火などで失われた「食堂」再建
日本放送協会:2017年5月26日 22時25分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170526/k10010996271000.html

世界文化遺産になっている奈良市の薬師寺で、中世の戦火などで失われていた「食堂」と呼ばれる建物が再建され、完成を祝う法要が営まれました。

奈良時代、薬師寺にあった「食堂」は僧侶の食事や仏教儀礼に使われていましたが、その後、中世の戦火などで失われました。
当時の伽藍(がらん)全体を復興させようと、去年3月から再建工事が進められ、このほど完成しました。

完成した「食堂」は幅およそ40メートル、高さおよそ15メートルあり、26日は再建を祝う落慶法要に関係者およそ1700人が参列しました。

法要では、薬師寺の村上太胤管主が「食堂」の本尊である「阿弥陀三尊浄土図」に特大の筆を向けて魂を入れる儀式を行いました。
参列した人たちは、僧侶たちによる読経の中、本尊に手を合わせていました。

「食堂」が再建されたことで、薬師寺が取り組んできた伽藍の復興はほぼ完了したことになります。
村上管主は「多くの人が集い、仏教への理解を深める場所にしたい」と話していました。

落慶法要は27日と28日も営まれ、「食堂」はことし7月1日から一般に公開されます。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1495806960/続きを読む
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