(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 奈良飛鳥時代

1: 樽悶 ★ 2018/10/30(火) 18:49:05.87 ID:CAP_USER9
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 飛鳥時代に築かれた狭山池(大阪府大阪狭山市)でかつて発掘された水路用の巨石は、その大きさや形容から古墳時代の大王クラスを葬った石棺とみられている。府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員が、巨石の特徴をもとに、さらに製作時期を絞り込み、被葬者に迫る説を打ち出した。仏教伝来で知られる欽明天皇、聖徳太子の弟の来目(くめ)皇子らが候補という。狭山池の巨石は、古墳から運び出した石棺を水路に転用したと考えられているが、古墳を特定する研究はほとんどないという。同館の特別展「王者のひつぎ」(11月25日まで)で紹介されている。(小畑三秋)

■改修工事で思わぬ発見

 狭山池は周囲約3・4キロで、川をせき止めたダム形式のため池としては国内最古。奈良時代の僧・行基(ぎょうき)や、東大寺再興で知られる鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん)らが大規模に改修した。

 巨石は、大正時代末~昭和初めと、昭和末~平成初めに行われた堤防の改修工事で計20点以上見つかった。多くが長方形で、最大のものは長さ2・6メートル、幅1・3メートル、高さ約1メートル。内部がくり抜かれ、遺体を納める石棺の本体とみられる。水路にするため、石棺の前と後ろの壁面を削り取って「U字溝」の形にして利用。家の屋根の形をした石材もあり、5~6世紀の古墳にみられる「家形石棺」とされている。

 重源の功績を記した鎌倉時代の文献には、「狭山池に石の樋を築いた」と記載。出土した巨石は、重源の時代に複数の古墳から掘り出されて水路に転用したとみられ、「狭山池石棺群」と呼ばれる。

 家形石棺は近畿の巨大古墳に多く「王者のひつぎ」と呼ばれる。西川さんは、狭山池では長さ2メートル以上の大型のものが半数以上あることに着目し、「大王クラスの古墳から掘り出された可能性が高い」と推測した。

 2メートル以上の家形石棺は、欽明天皇の墓ともいわれる巨大前方後円墳、丸山古墳(奈良県橿原市、全長318メートル)、金銅製の冠など豪華な副葬品が見つかった藤ノ木古墳(同県斑鳩町、直径50メートル)など天皇や皇子クラスの墓に多い。

■候補に聖徳太子の弟

 「博物館の見学者から、狭山池の石棺はどの古墳から運ばれてきたのか質問されることがあるが、研究がほとんどなく回答に困った」と西川さん。巨石は重さ1トン以上あり、遠方から運ぶのは困難とみて大王クラスの古墳が集中する百舌鳥(もず)・古市古墳群から候補を探した。

 石棺は、蓋石の形状から築造時期がある程度分かる。古いものは屋根上部の平坦面の幅が狭く、新しくなるにつれて広くなる傾向がある。

 大正~昭和初めに見つかった石棺の蓋石(長さ2・2メートル、幅1・4メートル)は、屋根の平坦面が広いことから6世紀末~7世紀初めと推定。狭山池から約5キロ北東にある陵墓の来目皇子墓(大阪府羽曳野市、一辺50メートル)は、市教委の調査で7世紀初めの築造とされ、603年に死去した来目皇子の墓の可能性が高く、狭山池出土の石棺と時期も合致するという。

 同古墳について江戸時代の文献では「石室はあるが石棺はない」と記され、西川さんは「狭山池近辺で7世紀初めの皇族クラスの古墳は来目皇子墓以外になく、ここから運び出されたのではないか」とする。

■国内最大級の石棺

 一方、昭和末~平成初めに発掘され、狭山池石棺群で最も大きい2つの石材についても詳細に検討。いずれも長さ2・4~2・6メートル、幅約1・3メートルで石棺本体部分とみられ、国内の石棺でも最大クラスになる。石の細かい材質や底部の加工した跡が共通しているとし、同じ古墳から運び出されたと判断した。

 そのうえで「巨大な石棺を2つも納めるには、相当大きな石室が必要」とし、約8キロ北にあり国内5番目の墳丘規模を誇る前方後円墳、河内大塚山古墳(松原市・羽曳野市、335メートル)を候補に挙げる。

 この2つの石棺とほぼ同規模の石棺2つが実際の石室に置かれているのが、欽明天皇の墓ともいわれる奈良の丸山古墳だ。墳丘は河内大塚山古墳に次ぐ全国6番目の規模で、築造時期もほぼ同じ6世紀後半とされ、「狭山池の巨大な石棺を納めることができるのは、丸山古墳に匹敵する古墳。河内大塚山古墳以外に見当たらない」という。

 さらに、両古墳は密接な関係があったと指摘。日本書紀では、欽明天皇は死後、「古市」で葬送儀礼の一つ「もがり」が行われ、その後に飛鳥に葬られたと記述。「いったん河内大塚山古墳に埋葬されたが、丸山古墳に改葬されたのでは」と推測する。

(続きはソース)

産経新聞 2018.10.30 10:00
http://www.sankei.com/west/news/181030/wst1810300003-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1540892945/続きを読む

1: ガーディス★ 2018/05/03(木) 02:26:53.41 ID:CAP_USER9
 奈良時代の中央官庁に、月15%の超高金利ローンがあった。借り手は下級役人たち。上司からの融資要求を断り切れず、多くの部下が金を借りては返しを繰り返していた。そんな古代の公務員の借金の実態が、奈良・正倉院に保管されてきた文書から明らかになった。

https://www.asahi.com/sp/articles/DA3S13478007.html
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1525282013/続きを読む

1: 泥ン ★ 2018/01/24(水) 19:34:53.81 ID:CAP_USER9
道鏡ゆかりの東弓削遺跡で見つかった「優婆夷」と墨書された土器=大阪府大阪狭山市の府立狭山池博物館
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 奈良時代の女帝・称徳(しょうとく)天皇の寵愛を受け、“陰の天皇”ともいわれた高僧、弓削(ゆげ)の道鏡が建立した由義寺(ゆげでら)跡とされる大阪府八尾市の東弓削遺跡で、「優婆夷(うばい)」「寺」と墨で書かれた土器が見つかっていたことが23日、分かった。

 優婆夷は、寺への資金援助をした在家の徳の高い女性信者を意味し、由義寺が天皇や信者の手厚い支援を受けていたことが判明。八尾市文化財調査研究会によると、「優婆夷」と書かれた土器は全国でも例がないといい、貴重な資料になりそうだ。

 東弓削遺跡では昨年、20メートル四方の塔の基壇(きだん)跡が見つかり、奈良・東大寺にあった七重塔に次ぐ高さ60~70メートルの七重塔と推定され、道鏡の強大な権力を裏付けられた。

 土器は塔跡の北東約600メートルで、由義寺と一体で築かれた天皇の離宮「由義宮(ゆげのみや)」跡と推定される一角から出土した。素焼きの皿(直径17センチ)の裏面に達筆な文字で「優婆夷」と墨書。その下にも1文字あり、土器が欠損して判読できないが、女性信者の個人名ともみられる。

 「大吉」「福」と書かれた皿もあり、縁起物や儀礼用の可能性もあるという。

 優婆夷は、在家の男性信者「優婆塞(うばそく)」とともに当時の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に記され、奈良時代前半には存在。経典を読んだり、儀式に関わったりし、優婆塞は遣唐使として派遣されるなど重要な役割を担ったとされている。

 墨書土器は、大阪府大阪狭山市池尻中の府立狭山池博物館の特別展で28日まで公開される。

                 ◇

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話「優婆夷や優婆塞は、出家はしていないが相当に徳を持った宗教者。称徳天皇や道鏡は仏教の力で国家を治めようとして由義寺を建立し、由義宮も政治だけでなく仏教を核とした離宮だった。墨書土器が見つかったことで、一帯に優婆夷や優婆塞がいて宗教活動を支えたことがうかがえる」

産経WEST 2018.1.23 15:11
http://www.sankei.com/west/news/180123/wst1801230071-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1516790093/続きを読む

1: 紅あずま ★ 2018/01/02(火) 12:31:52.36 ID:CAP_USER9
水深71mの古代ロマン!琵琶湖の底に完全な形の土器 立命館大が発見
2018年01月02日 08時00分
http://sp.hazardlab.jp/know/topics/detail/2/3/23254.html

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水深71.5メートルの琵琶湖の湖底で見つかった完全な形を残す土器(口径約20センチ、高さ約30~40センチ)(提供:立命館大学)


 日本最大の琵琶湖には、地滑りや地盤沈下が原因で水没した可能性がある水中遺跡が数多く眠る。
そのうちのひとつ、琵琶湖に突き出した「葛籠尾崎(つづらおざき)」沖の湖底で、飛鳥時代から奈良時代に作られたとみられる土器が発見された。

 立命館大の矢野健一教授と熊谷道夫教授らのグループは、2017年12月14日、滋賀県長浜市の葛籠尾崎の沖から400メートルほど離れた水域で、水中ロボットを使った遺跡探査を実施。
水深71.5メートル地点で7~8世紀に作られた土師(はじ)器のかめと推定される完全な形の土器を見つけ、カメラで撮影した。

 この遺跡は、深さ70メートル付近の水流が激しい湖底にあるため、ダイバーの潜水調査は難しく、グループは独自に水中ロボットを開発し、調査を続けてきた。

 琵琶湖や周辺に点在する内湖の底には、かつて陸上にあったものの、水位の上昇や地盤沈下などの理由で水没したとみられる湖底遺跡が約80カ所存在する。

 立命館大のグループは、2010年以降16回にわたる調査で、葛籠尾崎の沖合から1.5キロほど南に浮かぶ竹生(ちくぶ)島にかけての水域で、6世紀から12世紀ごろの須恵(すえ)器や土師器の坏(つき)とみられるものを発見している。

 このうち、平安時代の土器については、古来より神の棲む島として崇拝されてきた竹生島の信仰と関連性が高いと指摘する意見もある。
ただし、今回発見された土器は、従来のものとは形態が異なっており、その使用目的や湖底にある理由については、これからの調査が待たれるばかりだ。

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琵琶湖北部に浮かぶ竹生島は、奈良時代に行基上人が四天王像を安置したという伝説が残る、古来より神仏一体の聖地だ(Wikimedia Commons)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1514863912/続きを読む

1: 紅あずま ★ 2017/05/25(木) 10:43:53.49 ID:CAP_USER9
出雲国風土記
引用した最古の棟札確認 写本の存在示す
毎日新聞:2017年5月25日 10時15分
http://mainichi.jp/articles/20170525/k00/00e/040/242000c

 島根県出雲市は24日、波迦(はか)神社(出雲市斐川町三絡)で、奈良時代の地誌「出雲国風土記(いずものくにふどき)」を引用した最古の棟札(むなふだ)を確認したと発表した。
棟札の裏に祭神のヤマトタケルが降臨して鎮座したことを漢字で記していた。
出雲国風土記に同様の表現があり、市は「中世の出雲国(県東部)に風土記の写本が存在したことを示す貴重な史料」としている。

 市文化財課によると、棟札は建物名や上棟年月日を書いて棟木に打ち付けた板。
発見されたのは縦56.2センチ、幅11.5センチで社殿を造営した1551(天文20)年の棟札という。

 市が市歴史文化基本構想をまとめるため、市内の神社を調査した際、波迦神社の棟札25点を調べて判明した。
1604(慶長9)年の棟札にも、ほぼ同様の記載があった。

 高橋周・市文化財課専門研究員は「風土記独特の表現を用いており、神主が風土記を閲覧したか所持していたことを示唆している。写本をどう入手したのか今後、研究する必要がある」と話す。

 出雲国風土記は733年に完成し、原本は失われた。
年代の明らかな最古の写本は1597年で、江戸時代に多くの写本が作られた。
鎌倉時代に京都で原本か写本を見た人がいることを示す史料はあったが、中世の出雲国に写本が存在したかは分かっていなかった。

 出雲国風土記を利用した最古の史料としては、1502年作成の巻物「灰火山社記(はいびやましゃき)」(松江歴史館蔵)がある。

 佐藤信・東京大大学院教授(日本古代史)は「棟札の文章は16~17世紀の出雲で、現地の人々が見られる風土記の写本が存在した可能性を示し、大きな意義がある」とみている。

 棟札は31日から6月5日まで、出雲弥生の森博物館(出雲市大津町)で一般公開する。入場無料。

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1: 紅あずま ★  2017/05/24(水) 20:21:34.31 ID:CAP_USER9
奈良の法輪寺で、飛鳥時代のものとみられる「舎利孔鉄蓋(しゃりこうてつぶた)」が確認される
HuffPost:2017年05月24日 06時09分
http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/23/hourin-temple-sharikoutetsubuta_n_16778048.html

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発見された舎利孔鉄蓋=23日午前、奈良県斑鳩町の法輪寺

鉄製の舎利孔蓋、奈良の法輪寺で確認 飛鳥時代のもの?

 聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の創建とも伝わる奈良県斑鳩町の法輪寺(ほうりんじ)で、仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の遺骨)の壺を納めた穴の蓋(ふた)「舎利孔鉄蓋(しゃりこうてつぶた)」が確認された。
寺が23日発表した。鉄製で、飛鳥時代の7世紀後半のものとみられる。
江戸時代に絵に描かれたが、その後は所在不明になっていた。

 蓋は円盤状で、直径約33センチ、厚さ0・5~1ミリ、重さ712グラム。
仏舎利の入った「銅壺(どうこ)」(国重要文化財、飛鳥時代)を納めるため三重塔の心柱(しんばしら)の礎石に開けられた穴をふさぐ蓋とみられる。
もとは直径34センチほどで中央につまみがあったとみられるが、さびて周辺部やつまみは失われていた。

 寺の依頼で2015年、町教育委員会が蔵を調べたところ、棚の中で盆に載った状態で見つかった。
今年に入って奈良文化財研究所で詳しく調査。
塔を解体修理中の1739(元文4)年に仏舎利などが見つかった時の記録「仏舎利縁起(えんぎ)」(国重要文化財)には、
仏舎利に関する九つの品の一つとして「金蓋(かなぶた)」が描かれており、町教委は大きさや形などの特徴が似ていることから同一品と判断した。

 町教委生涯学習課の平田政彦課長補佐によると、「古代寺院での鉄製の舎利孔蓋は、確認した中では初めての事例」という。

(朝日新聞デジタル 2017年05月24日 06時09分)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1495624894/続きを読む

1: すらいむ ★  2017/03/08(水) 11:35:14.67 ID:CAP_USER9
「聖徳太子」守れ つくる会が次期指導要領案で要望 「日本主体の古代史ストーリーが崩壊する」

 文部科学省が2月に公表した小中学校の次期学習指導要領改定案について、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は7日、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」との併記とした歴史用語の変更を取りやめるよう求める文書を文科省に提出した。

 文書では、「厩戸王の呼称になれさせようとしている」と指摘。
 「律令国家形成の出発点となった聖徳太子を抹殺すれば、日本を主体とした古代史のストーリーがほとんど崩壊する」と批判している。

 改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。
 文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的としている。

産経ニュース 2017.3.7 20:55
http://www.sankei.com/life/news/170307/lif1703070042-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1488940514/ 続きを読む

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