(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ:日本史 > 古墳時代

1: ばーど ★ 2018/04/18(水) 07:49:53.84 ID:CAP_USER9
 福岡市東区の志賀島で発見されたと伝わる国宝の金印「漢委奴国王」の製作を再現する実験が始まった。取り組むのは「九州鋳金研究会」に所属する鋳造技術や考古学などの専門家たち。古代の金印がどのように作られたのか、いまだ詳しいことが分かっていない謎の解明への挑戦だ。

 3月末、福岡県宗像市にある福岡教育大の鋳造室。九州鋳金研究会会長で、鋳金が専門の宮田洋平教授(58)が溶解炉を熱していた。地金を溶かす「るつぼ」が炉内にある。木炭を炉に入れると、火の粉が高く舞い上がり、真っ赤な炎は勢いを増した。

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「世界の記憶」への金印の登録を目指すNPO法人「志賀島歴史研究会」(福岡市東区)の要請を受け、九州鋳金研究会は金印の製作技術の研究を始めた。

 昔の官印に関する文献を踏まえて工法を検討し、古代中国でも行われた蝋(ろう)型鋳造法を採用。金属を溶かす熱源は、現代ではコークスを用いるのが一般的だが、当時の工法に近づくため、木炭を使うことにした。

 鋳型は、宗像市の鋳物師、遠藤喜代志さん(68)が製作。福岡市博物館にある金印のレプリカを参考に、蜜蝋と樹脂を混ぜて原型を作った。実物よりわずかに大きくしたのは、後で加工するためだ。

    □  □

 歴史研究会のメンバーや福岡市博物館の学芸員など合わせて約30人が見守る中、実験が進む。

 火入れから約1時間。炉内の温度が千度を超えると、地金をるつぼの中へ投入した。金の含有率は実物と同じ。湯口まで満たすため、地金は実物よりも約90グラム重い。

 15分ほどで地金が溶けた。炉内の温度は1188度に達していた。地金を鋳型に流し入れると、オレンジ色の液体は急速に赤みを失って固まった。

 さらに1時間後。宮田教授が冷ました鋳型を木づちで割ると、砂まみれの金印が現れた。しかし…。

 「残念ながら失敗です」と宮田教授。金印の印台の一部が欠けていた。

 宮田教授によると、熱源に使い慣れていない木炭を使ったことで、地金が十分に溶解せず、湯口に近い部分まで行き渡らなかったようだ。

 当初は金印を鋳造後に印面に篆刻(てんこく)する予定だったが、その手法を含めて製作法を再検討し、実験は原型作りからやり直すことになった。ただ、古代の技術解明のためには、失敗を追体験することも大切なことかもしれない。

 九州鋳金研究会は、志賀島歴史研究会が10月に開く金印シンポジウムで一連の研究成果を報告する予定。歴史研究会理事の岡本顕実さん(74)は「金印を技術的に検証し、製作法が明らかになれば、世界の記憶登録への追い風になる」と期待を寄せている。

【ワードBOX】国宝金印「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」

 江戸時代、志賀島で農民が発見したと伝わる。古代中国の史書「後漢書」に、後漢の光武帝が57年、福岡平野にあった奴国の王に印綬を与えたと記され、「漢委奴国王」と刻まれた金印のことだとされるが、偽物説もある。一辺2.3センチ。重さ108グラム、金の含有率95%。福岡市博物館所蔵。

金印の製作を再現する九州鋳金研究会のメンバーたち=3月30日、福岡県宗像市
https://www.nishinippon.co.jp/import/national/20180417/201804170007_000_m.jpg
溶かした金を鋳型に流し込むと、あっという間に固まった
https://www.nishinippon.co.jp/import/national/20180417/201804170007_001_m.jpg
九州鋳金研究会が作った金印。湯口に近い部分が欠けている
https://www.nishinippon.co.jp/import/national/20180417/201804170007_002_m.jpg

2018年04月17日 17時00分 
西日本新聞 
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/409269/

関連過去スレ

【歴史】国宝「金印」は本物? 後世のニセモノでは、との声が後を絶たず[朝日新聞]
https://asahi.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1508837001/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1524005393/続きを読む

1: キリストの復活は近い ★ 2018/03/24(土) 13:38:12.97 ID:CAP_USER9
日本という国はいつ誕生したのか-。このテーマの議論は、研究者の間では「七五三論争」と呼ばれている。

「邪馬台国の女王、卑弥呼が統治した「3世紀」か、仁徳天皇ら倭の五王による巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、そして天皇制が確立したとされる飛鳥時代の「7世紀」かで議論が分かれているからだ。

国内初の本格的な都、藤原宮(奈良県橿原市)や大宝律令という法律が整備された7世紀こそ「日本国成立」ともいわれるが、邪馬台国の時代にはすでに女王が国を治め、中国王朝と外交関係を築き、国家といえる形が整っていた。(小畑三秋)

 ■「女王の都するところ」

 「飛鳥時代が国家の始まりともいわれるが、決してそうではない。日本国がいきなりできたのではなく、卑弥呼の時代には原型ができていた」と指摘するのが、纒向(まきむく)学研究センターの寺沢薫所長だ。
 寺沢さんは邪馬台国の有力候補とされる纒向遺跡(同県桜井市)を調査し、弥生時代から古墳時代への変遷など、国家形成について研究している。

 同遺跡には、卑弥呼の墓説が根強い箸墓(はしはか)古墳(墳丘長280メートル)をはじめ、国内最古級の前方後円墳が集中し、邪馬台国論争の舞台だ。

遺跡中心部のJR桜井線・巻向駅近くで平成21年、東西に一列に並んだ3世紀前半の国内最大級の大型建物跡(南北19メートル、東西12メートル)など4棟が見つかった。
卑弥呼が中国に使者を送ったと中国の歴史書「魏志倭人伝」に記された239年とほぼ重なり、邪馬台国中枢部の可能性が一気に高まった。

 ■「邪馬台国、女王の都するところなり」

 魏志倭人伝は、卑弥呼のいた場所についてこう記している。
 「卑弥呼は邪馬台国の女王とよく言われるが、そうではない。邪馬台国を含む倭国全体の女王。居住していたのが邪馬台国」と寺沢さん。
そのうえで、「纒向遺跡は邪馬台国の中心であり、卑弥呼は発掘された大型建物で政を行い、倭国の首都だった」と指摘する。

 纒向遺跡では、約2700個もの桃の種、香辛料に使われるバジル、ベニバナの花粉も出土。ベニバナは古代エジプトではミイラを巻いた布、中国でも染料として使われた。桃は、仙人が暮らす中国の理想の地「桃源郷」を連想させる。バラエティーに富む発掘成果は、中国との外交を通じてシルクロード文化を積極的に取り入れていたことを物語る。

  ■外交に長けた女王

 「汝をもって親魏倭王となし、金印紫綬を与える」。魏志倭人伝は、239年に卑弥呼が中国・魏に使者を送り、魏の皇帝が卑弥呼を親魏倭王に任命し金印を授けたと記す。今から1800年近く前、決して対等ではなかったが、日本と中国で外交関係が築かれていたことがうかがえる。

卑弥呼は、倭国の統治に中国の威光を頼ろうとした。当時は三国志で知られる魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)がしのぎを削り、魏の王・曹操や蜀の劉備玄徳(りゅうびげんとく)ら英雄が覇を競った。卑弥呼が外交相手に選んだのは、中でも優位にあった魏だった。

 「卑弥呼の政権は、東アジア情勢を敏感に察知しながら中国と外交を展開した」と寺沢さんは話す。

 ■男子の王で戦乱

 倭人伝は、卑弥呼誕生の経緯についても詳しく述べている。
「もともと男子を王にしていたが、戦乱が起きたため1人の女性を王に立てた。その名は卑弥呼という」と記載。
寺沢さんは、卑弥呼が各地の王の上にたって統治していたとし、「こうした統治体制は、5世紀の倭の五王の時代と変わらない。これが、のちの天皇制へとつながっていった」と説く。

 そして飛鳥時代、中国から長年「倭国」と呼ばれていたのを、自ら「日本」と名乗るようになった。
太陽が昇る「日出する国」「日の本(ひのもと)の国」として、中国をはじめとした東アジアの国家の一員であることを宣言したのだった。

http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n2.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n3.html
http://www.sankei.com/west/news/180324/wst1803240002-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1521866292/続きを読む

1: 水星虫 ★ 2018/02/27(火) 20:04:16.26 ID:CAP_USER9
素粒子で古墳内部を調査

*ソース元にニュース画像あり*


http://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/2055222122.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

奈良県斑鳩町の春日古墳で「ミューオン」と呼ばれる素粒子を使って内部を透視する最新の調査によって古墳の中心部に石室とみられる空洞があることが初めて確認されました。

これは奈良県立橿原考古学研究所などが27日、発表しました。
斑鳩町の春日古墳は形状などから「古墳」とされてきましたが、発掘調査が行われたことは無く、内部の構造については分かっていませんでした。

今回の調査は宇宙から降り注ぐ「ミューオン」と呼ばれる素粒子を解析しレントゲン写真のように内部を透視する最新の技術を使って行われました。
その結果、中心部に空洞が確認され、データの解析から空洞の大きさは幅約1.8メートル、高さ約2メートル長さ約6.1メートルほどと推定されるということで、要人を埋葬した石室とみられるということです。

春日古墳は、豪華な副葬品が発掘され大きな話題となった藤ノ木古墳の近くにあり、過去に盗掘にあった形跡がみられないことから埋葬された当時の状態が残されている可能性があるとして注目されています。

奈良県立橿原考古学研究所の石黒勝己特別研究員は、
「春日古墳に石室とみられる空間があることが初めて確認できた。
この技術を使えば古墳を保護しながら研究することができ、手つかずだった古墳の調査が進むはずだ」
と話しています。

【春日古墳とは】
奈良県斑鳩町の春日古墳は、豪華な副葬品が多数見つかった藤ノ木古墳の北東、約150メートルにあります。
造られた時期も、6世紀後半から7世紀初めと、藤ノ木古墳と同じ時期と考えられています。
民有地にあるため、これまで発掘調査は行われていませんが、平成23年度に町の教育委員会が行った測量調査の結果、直径約30メートル高さ約6メートルの円墳と推定され、また、側面に石室の一部とみられる岩が露出しているのが確認されました。

掘られた形跡は確認されておらず、未盗掘の古墳とみられることから、地元などからは、「第2の藤ノ木古墳」となる可能性もあると、期待の声が上がっています。

斑鳩町は、今後、初めてとなる発掘調査を行う方針で、平成27年度に考古学の専門家などによる検討委員会を設置し、事前調査を始めています。

【藤ノ木古墳とは】
奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳は、6世紀後半に造られたとされる直径約50メートルの円墳です。
昭和60年に始まった発掘調査では、のちに国宝に指定された、銅に金メッキを施した豪華な馬具や靴、それに、金属の首飾りなど、盗掘を免れた3万点以上の副葬品が見つかりました。
また、朱塗りの石棺からは、成人の男性2人の骨が確認され、蘇我氏によって暗殺された2人の皇子が埋葬されたのではないかとする説など、さまざまな説が唱えられ、全国的に注目されました。

【素粒子調査とは】
調査で使われた素粒子「ミューオン」は、宇宙を飛び交っている「宇宙線」と呼ばれる粒子が大気と衝突してでき、地上に大量に降り注いでいます。
さまざまな物質を通り抜ける性質がありますが、密度の高い物質にぶつかると吸収されたり、弱められたりして通過する数が減ります。

一方、内部が空間になっている場合、ほかの場所よりも通過するミューオンの数は多くなります。
古墳の中を通り抜けたミューオンを検出して解析することで、レントゲン写真のように、内部の構造を透視できます。

この技術は、日本などの研究チームによって、エジプトのピラミッドの調査でも用いられ、去年、内部に巨大な空間があることが明らかにされたほか、国内では、
火山の観測や、東京電力福島第一原子力発電所の建屋の調査などにも活用されています。

【橿原考古学研究所“画期的だ”】
奈良県立橿原考古学研究所の菅谷文則所長は、
「発掘しないで、古墳の内部が分かる画期的な調査方法で、人が近づけない古墳などに応用できる。今後、日本の古墳の調査方法が大きく変わるのではないか」
と話しています。
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02/27 18:13
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1519729456/続きを読む

1: ごまカンパチ ★ 2018/02/17(土) 19:29:05.37 ID:CAP_USER9
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/394877/
 福岡市は16日、比恵遺跡群(博多区博多駅南)から3世紀後半の古墳時代とみられる石製すずりの一部が出土したと発表した。
遺跡群は古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の中心部にあり、市は「邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見」としている。

 市埋蔵文化財課によると、出土した石製品は、板状で幅4・7センチ、長さ最大5・4センチ、厚さ0・8センチ。
形状や、表面の磨かれ具合などから、すずりとみられるという。
2016年7~8月の事務所建設に伴う発掘で見つかり、専門家に調査を依頼して判明した。

 筆やすずりなどの文具は、弥生時代中期(紀元前1世紀前後)以降に、朝鮮半島から西日本に広まったとされる。
弥生時代のすずりは、三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)や中原遺跡(同県筑前町)など4遺跡で出土しているが、その後の古墳時代前期(3世紀後半)のすずり出土は国内で初めてという。

 比恵遺跡群は、弥生時代に奴国の拠点集落があったとされ、これまでも竪穴住居跡や小銅鐸(どうたく)などが見つかっている。
市の担当者は「奴国が、文字文化もある重要な場所だったことを示す史料になる」と話した。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1518863345/続きを読む

1: 水星虫 ★ 2018/02/01(木) 12:23:02.30 ID:CAP_USER9
古代遺跡の発掘調査で坑道跡発見

http://www3.nhk.or.jp/lnews/tokushima/20180201/8020001148.html
※NHKローカルニュースは元記事が消えるのが早いので御注意を

国内で唯一、古代に朱色の顔料のもととなる鉱物が採掘されていたとみられる徳島県阿南市の遺跡で、去年、30年ぶりに発掘調査が行われ、採掘のために掘られた坑道の跡とみられる場所が確認されました。

阿南市水井町にある「若杉山遺跡」は、弥生時代後期から古墳時代初めにかけて、
朱色の顔料のもととなる「辰砂」という鉱物を採掘していたとみられる国内唯一の遺跡です。

阿南市は、遺跡の国の史跡への指定を目指して、県教育委員会とともに去年8月から30年ぶりとなる発掘調査を行っていて、31日、現地で報道関係者にこれまでの成果を説明しました。
今回の発掘調査では、「辰砂」を採掘していた坑道の跡と見られる奥行きおよそ14メートル、幅が広いところで3メートル、高さ70センチほどの空間が確認されました。

坑道の跡とみられる場所は、戦後まもないころの文献で存在が指摘されていましたが、調査で初めてその規模などが確認されました。

発掘調査を担当した阿南市文化振興課の向井公紀さんは
「まさか坑道の跡が見つかるとは考えていなかったので、びっくりしました。
今後は坑道が使われていた年代などを詳しく調べたい」と話しています。

若杉山遺跡ではことしの夏まで発掘調査が続けられ、阿南市では報告書をまとめたうえで来年、国の史跡への指定を申請したいとしています。

02/01 06:38
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1517455382/続きを読む

nigaoe_jinmu_tennou

1: 名無しさん@おーぷん 2018/01/30(火)19:47:35 ID:43s
1代神武から実在した説(日本会議しか信じてないアホ説)
神武と10代崇神は同一人物でかつ初代説
神武と崇神と15代応神は同一人物でかつ初代説
21代雄略(ワカタケル)が初代説
26代継体が初代説

どれがホンマなんや…
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1: 泥ン ★ 2018/01/18(木) 19:51:54.76 ID:CAP_USER9
湯迫車塚古墳(岡山市)出土の三角縁神獣鏡の鋸歯文。3面とも型が違う鏡なのに、砥石による仕上げ加工痕が酷似している=鈴木勉氏提供
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 三角縁神獣鏡という、古代史の世界で特に目立ってきた鏡がある。鏡の縁の断面が三角形で、神や神獣の図柄をもつ。やっかいな鏡ともいえ、製作地が中国(魏)か日本国内かをめぐり、100年も議論になっている。

 魏鏡説では、倭(わ)国(邪馬台国はその都)の女王卑弥呼の鏡とも呼ばれる。魏志倭人伝によれば、3世紀、卑弥呼は魏に使者を送り、贈り物をもらった。そのリストに「銅鏡百枚」とあり、魏の年号入りの品も含むこの鏡を指すと考えるのだ。

 近畿地方が分布の中心なので邪馬台国畿内説の論拠にもなるが、重大な弱点がある。100枚どころか500枚以上も見つかっている上、肝心の中国から出てこないのだ。「倭の好む鏡を魏が特別につくって贈った。だから中国にはない」とする「特鋳説」があるが、考古学の常道にないアクロバット的学説だろう。

 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。

 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。

 そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。

 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。

 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。

 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。

 その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。

 加工痕の画像という一目瞭然の新手法で国産説を提起した鈴木氏は「(鏡の形や図像、銘文をたどる)系譜論では、製作地問題は絶対に解決しない」と、製作技術に目を向けたがらない考古学の実情に警鐘を鳴らす。

   ■  ■

 対する考古学界の反応がさびしい。1年たっても、村瀬陸・奈良市埋蔵文化財調査センター技術員の書評(「考古学研究253」所収)が目につくくらいだ。

 村瀬氏は「実験あっての結果と、非常にわかりやすい分析方法。研究はネクストステージ(新段階)に入った。(本が)全て正しければ国産になる」と評価する。ただ「加工痕の古墳ごとのまとまりも、製作の時期差が加工痕の違いになった可能性がある」などと、鈴木説にはまだ課題があると考える。一方で「鏡研究者側が疑問点をどんどん出さないと」と、議論が起こりにくい学界の閉鎖体質も指摘した。

 三角縁神獣鏡が国産なら、影響は甚大。考古学では従来、中国渡来の貴重な鏡が列島の中央から各地の首長に下賜・配布されたと考える中央集権的な王権論が主流だ。その鏡が国産で、しかも工人集団が各地に出向いて製作していたとなれば、半世紀以上に及ぶそんな定説的国家観など消し飛んでしまう。

 27歳の若手研究者、村瀬氏に発言を任せておけばいいという問題ではないと思う。【伊藤和史】

毎日新聞 2018年1月18日 東京夕刊
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1516272714/続きを読む

1: ハンバーグタイカレー ★ 2017/11/27(月) 07:09:04.77 ID:CAP_USER9
http://www.asahi.com/articles/ASKCL5R38KCLPTFC00F.html

 大阪府の百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が世界文化遺産の国内候補になったことで、「仁徳天皇陵」や「応神天皇陵」などの陵墓が注目されている。だが、宮内庁が被葬者としている天皇や皇族には、学術的には疑問も少なくない。

 陵墓とは、歴代の天皇・皇后の墓である「陵」と、皇族が葬られた「墓」の総称だ。宮内庁のホームページによると、同庁は現在、188の陵と555の墓、46の陵墓参考地(陵墓の候補地)など、計899件を管理している。

 堺市の百舌鳥古墳群と、大阪府羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群は、古墳が最も巨大化した5世紀を中心に築かれた、計88基の古墳からなる。このうち、宮内庁が陵墓として管理しているのは46基。全長486メートルと日本最大の大山(だいせん)古墳(仁徳陵古墳)、同425メートルで第2位の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵古墳)をはじめ、全長200メートル以上の前方後円墳10基は、すべて宮内庁管理の陵墓古墳だ。

 宮内庁は一般の人の陵墓古墳への立ち入りを禁止している。百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補となった際にも「引き続き皇室の祖先のお墓として、地域と協力をしながら適切な管理を行っていく」としており、登録が実現しても一般公開などは難しそうだ。

     ◇

 大阪府と地元3市でつくる「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」は、宮内庁が天皇陵に指定する古墳を「仁徳天皇陵古墳」「応神天皇陵古墳」などと呼んでおり、考古学者や歴史学者から批判の声があがっている。天皇陵の指定は幕末から明治にかけて、8世紀の「古事記」「日本書紀」(記紀)や10世紀の「延喜式」の記述を元に進められており、現在の学術的な年代観とは矛盾するものも多いためだ。

 例えば、履中(りちゅう)天皇陵に指定された堺市のミサンザイ古墳は、埴輪(はにわ)の分析による年代では5世紀前半の築造とされる。一方、履中の父・仁徳天皇の陵とされる大山古墳は5世紀半ばの築造。「日本書紀」には父の6年後に亡くなったと記された履中の墓の方が古い。

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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1511734144/続きを読む

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