(遅報)歴史まとめ

歴史関係の記事を紹介している2chまとめサイトです。歴史関係のスレ(ほぼなんj)をまとめています。良かったらご覧ください。

カテゴリ: ニュース

1: みつを ★ 2018/08/16(木) 05:23:26.60 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3186136?cx_part=latest

「ユリ・ゲラー博物館」の建設中に大規模な地下遺構発見 イスラエル
2018年8月15日 18:38 
発信地:ヤッファ/イスラエル [ イスラエル 中東・北アフリカ ]

【8月15日 AFP】イスラエル・テルアビブ(Tel Aviv)郊外ヤッファ(Jaffa)で、「超能力者」を名乗り、テレビのパーソナリティーも務めるユリ・ゲラー(Uri Geller)氏の博物館の建設作業中、19世紀のオスマン帝国時代にさかのぼるせっけん工場の跡など、複数の大規模な地下遺構が偶然発見された。(c)AFP
historischer_fund_be_58368107
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534364606/続きを読む

1: サイカイへのショートカット ★ 2018/08/12(日) 02:51:02.26 ID:CAP_USER9
蔵からお宝、皇族ゆかりの神輿発見 京都・大原
2018年08月11日 17時00分 京都新聞
https://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20180811000087

皇族出身の僧が住職を務めた「梶井門跡」(現在の三千院)が寄付したとみられる江戸時代の神輿(みこし)がこのほど、京都市左京区で見つかった。屋根などに菊の御紋が入り、皇室との深い関わりを裏付ける。
同区大原の古文書を研究する住民団体が史料をひもとき、古老の証言を聞きつつ、大原の神社の蔵で保管されているのを発見した。文献でルーツなどを探っており、いまは途絶えている神輿を用いた祭礼の復活も目指す。

住民団体は「勝林院研究会」で、3月に発足した。勝林院(左京区大原勝林院町)は大原の地で伝えてきた仏教音楽「声明(しょうみょう)」の道場として、1013年に建立された。
同研究会は、市歴史資料館に預けられている同院文書をふるさとの歩みを記す史料とみて、デジタル保存と解読を進めている。

この一環で6月ごろ、声明の神様をまつる勝手神社(同区大原来迎院町)の蔵で神輿を見つけた。
全長が約3・6メートルで、屋根には菊の御紋が付き、鳳凰(ほうおう)の飾り金具もあった。神輿の几帳(きちょう)には江戸末期の1845年に「梶井御殿御寄(き)附(ふ)」があったことが書かれていた。
同研究会は勝林院を管理した梶井門跡の住職が、神輿や飾りを修復するか新調するかして寄付したとみている。

研究会の調査によると、江戸時代には4月に年中行事として「勝手大明神祭礼」を催していたとの記録があった。
明治時代まで続いていたが、明治政府の神仏分離令をきっかけに途絶えてしまったという。神輿の来歴や用いられ方には不明な点が多く、研究会は文書を解析して明らかにしようとしている。

勝林院文書は、江戸期を中心に中世や明治期を含めて2千~3千点にも上る。市歴史資料館によると、大原は洛中に近い地域ながら郷土史に未解明な点が多く、文書調査は仏教との関わりや民衆文化を知る手掛かりになる可能性があるという。

研究会を主宰する上田寿一さん(70)は「文書を通じて日本音楽の原点とされる声明とその守り神、地域や習俗との関わりを読み解きたい。その先に、さとづくりの象徴として祭礼の復興も考えたい」と話している。


声明の守り神をまつる勝手神社で見つかった神輿。菊の御紋が屋根などに入っている(京都市左京区大原)
20180811152215mikoshi450
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534009862/続きを読む

1: みつを ★ 2018/08/14(火) 18:47:19.06 ID:CAP_USER9
https://www.asahi.com/sp/articles/ASL8B4HSGL8BPLBJ001.html?ref=tw_asahi

江戸時代の食生活の変化、書物の紙に混ざった毛髪で判明
野中良祐
2018年8月14日18時5分

 江戸時代の書物の紙に含まれていた毛髪を分析したところ、当時の庶民の食生活が見えてきた――。そんな研究結果を14日、龍谷大などの研究チームが発表した。時代が進むにつれて、海産魚をよく食べるようになったことなどが、元素の分析から推定されるという。

 龍谷大の丸山敦准教授(生態学)によると、江戸時代の都市では出版ブームが起こり、たくさんの書籍が発刊された。大量の紙が必要なことから、古紙の回収や再生紙づくりも盛んになり、この過程で毛髪が紙に埋め込まれた。これらの毛髪は、たまたま混入した可能性のほか、耐久性を上げるための材料として、意図的に混ぜられたとする説もあるという。

 チームは、江戸時代に作られた書物から、130サンプルの毛髪を採取。炭素や窒素の同位体の割合を分析し、食生活を調べた。

 その結果、1700年以降の200年間に、海産魚を食べる割合が徐々に増加していったことが裏付けられた。漁業技術が発達し、ニシンなどの漁獲量が増えたことが背景とみられる。
 地域別にみると、江戸では、ヒエやアワなどの雑穀を食べる割合が比較的多かった。「江戸患い」と呼ばれた脚気が流行したため、ビタミンを含む雑穀を食べる健康法が広まっていた可能性があるという。

 丸山さんは「今後、飢饉(ききん)などの大きな出来事の前後で食生活が変わったかどうかについても、詳細に調べたい」と話している。(野中良祐)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1534240039/続きを読む

1: みつを ★ 2018/08/08(水) 00:58:55.00 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3185251?cx_part=latest

探検家アムンゼンの船、沈没経て100年ぶりに帰還 ノルウェー
2018年8月7日 23:14 
発信地:オスロ/ノルウェー [ ノルウェー ヨーロッパ ]

【8月7日 AFP】ノルウェーの極地探検家ロアール・アムンゼン(Roald Amundsen)が使用した船が6日、北極点(North Pole)周辺での探検のために出発してから100年を経て、ようやく同国に帰還した。

 極地探検で使用された「モード(Maud)」号は、1930年にカナダの北極海で沈没。その後85年の時を経て、貴重な船体が2016年に引き上げられた。

 バージ船に載せられ、6月末にデンマーク自治領のグリーンランドを出発したモード号は、えい航されながら北大西洋を横断。今月6日朝にノルウェー西部の港湾都市ベルゲン(Bergen)に到着した。

 モード号のノルウェー帰還事業に携わった責任者はAFPに対し、「旅は長かったが、うまくいった」と述べた。

 ノルウェー人起業家ら3人による資金提供を受け、モード号は首都オスロ近郊に位置するアスケー(Asker)で展示されることになる。(c)AFP

ノルウェー西部のベルゲンに到着した、ロアール・アムンゼン隊の探検船「モード号」(2018年8月6日撮影)。(c)AFP PHOTO / NTB scanpix / Jan WANGGAARD
img_bfc33a0177691bbb77deb97e43ee97de218014
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533657535/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/08/10(金) 12:26:29.86 ID:CAP_USER9
wor1808090046-p1

 【ロンドン=岡部伸】第二次大戦中の1945年7月、英国のチャーチル首相(当時)が米国による日本への原爆使用に最終同意して署名していたことが、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。約1カ月後の広島と長崎への原爆投下に至る意思決定に、チャーチルが深く関わっていたことを裏付ける資料として注目されそうだ。

 同館所蔵ファイル(CAB126/146)によると、原爆開発の「マンハッタン計画」責任者、グローブス米陸軍少将が45年6月初め、英国側代表のウィルソン陸軍元帥を通じて英政府に日本に対する原爆使用を許可するよう求めた。

 打診は、米国が核兵器開発に成功しても英国が同意しなければ使用できないなどと定めた43年8月の「ケベック協定」に基づく。

 英政府内で検討を重ねた結果、チャーチルは容認を決断し、45年7月1日、「オペレーショナル ユース オブ チューブ・アロイズ」(米国が日本に原爆を使用する作戦)に署名した。英首相官邸はこの最終判断を同2日付で公式覚書とした。

 同4日、米ワシントンで開かれた原爆開発の相互協力を協議する「合同政策委員会」の席上、ウィルソンが英政府として公式に「日本への原爆使用に同意する」と表明したことが分かっている。同ファイルによると、ウィルソンは米側に、チャーチルがトルーマン米大統領と近く直接協議を望んでいるとも伝えた。

 また別のファイル(PREM3/139/9)によると、7月24日のポツダム会談でチャーチルは、44年9月にトルーマンの前任のフランクリン・ルーズベルトと日本への原爆使用を密約した「ハイドパーク協定」を持ち出し、「警告なしで使用すべきだ」とトルーマンに迫った。

 トルーマンは翌25日、原爆投下指令を承認、投下命令が出された。その結果8月6日、人類史上初のウラン原爆が広島に、9日にはプルトニウム原爆が長崎にそれぞれ投下された。

 チャーチルが最終容認した背景には、英国が米国に先行し原爆開発に積極的に関与してきたことがある。

 30年代から亡命ユダヤ人科学者によって核分裂や核融合反応で放出されるエネルギーを利用した新兵器研究が進められ、40年にウラン235単独で爆弾が製造可能という理論をまとめた。41年10月、英独自の原爆開発計画「チューブ・アロイズ」が始動。米国に開発推進を訴え、42年8月、「マンハッタン計画」が始まった経緯がある。

 さらにファイル(PREM3/139/9)によると、チャーチルが44年9月、米国内のルーズベルトの別荘を訪れた際に結んだハイドパーク協定で、2人は「原爆が完成すれば、熟慮後、おそらく日本に使用される」などと合意した。原爆完成後はドイツではなく日本へ投下することが米英で密約され、翌10月、米国は原爆投下の最終準備に入った。

     ◇

 ■ケベック協定 1943年8月、ルーズベルト、チャーチルの米英首脳はカナダ・ケベック州で原爆の共同開発を密約。(1)兵器(原爆)を互いに対し攻撃するため使用しない(2)第三国に使用する場合、互いの同意が必要(3)両国の同意がない限り、英原爆開発計画「チューブ・アロイズ」に関する情報を流さない-などと結んだ。(2)は英側の事実上の拒否権となった。

2018.8.9 22:49
産経ニュース
http://www.sankei.com/world/news/180809/wor1808090046-n1.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533871589/続きを読む

1: 樽悶 ★ 2018/08/11(土) 05:20:13.91 ID:CAP_USER9
斗南藩成立前後の藩士の動向や経済事情に触れた梶原平馬の手紙の1枚
180810news1-thumb-300xauto-27741

 150年前の会津藩消滅時に家老などを務め、藩再興に奔走した梶原平馬(かじわらへいま)と山川浩(やまかわひろし)、さらに会津藩士の子で後の陸軍大将、柴五郎(しばごろう)の3人がそれぞれ明治以降、会津在住の元藩士、町野主水(まちのもんど)に出した手紙計3通が、東京都の町野の曽孫宅で見つかった。

 文面を読み解いた直木賞作家の中村彰彦さん(69)によると、旧会津藩が斗南藩として復活する1870(明治3)年ごろの藩士たちの動向や経済事情に触れた梶原の手紙をはじめ、いずれも明治、大正の「会津武士」の生活ぶりや人柄が分かる貴重な史料という。

 手紙の日付は、梶原が4月1日。年は書かれていないが、中村さんによると内容から1870年と判別できる。山川は89(明治22)年9月5日。柴が1919(大正8)年9月14日。毛筆で書かれている。

 会津藩最後の筆頭家老で戊辰戦争直後は東京で謹慎した梶原の手紙は薄紙2枚。1枚目冒頭の「高田脱走惣調(そうしらべ)/東京脱走惣調/無宿者惣調」の3行に続き、戊辰戦争後に旧藩士が収容された越後高田(現新潟県上越市)、東京両謹慎所からの脱走者の調査が終わり、脱走先から戻った者、戻る見込みの者の家にも1日に付き1人当たり4合の玄米を給付し、台所事情が厳しい家には申し出れば対応する―などと記されている。

 中村さんは「平馬は脱走に頭を痛め、また70年4月の斗南藩成立で政府による給付が藩の手に移り、扶持(ふち)高は半分以下にせざるを得なかった。そして会津残留者たちにも同じ扱いをする必要を考え、扶持高改定を町野にも伝えた。東京と会津、越後高田で連絡し合い時代の逆風に対処していた状況が分かる」としている。

福島民友 2018年08月10日 08時00分
http://www.minyu-net.com/news/news/FM20180810-296691.php
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533932413/続きを読む

1: ばーど ★ 2018/08/08(水) 18:50:38.68 ID:CAP_USER9
京都のお盆の伝統行事、「京都五山送り火」について、かつて行われていたとされるもののその後途絶えて正確な場所が特定されていないひらがなの「い」の文字の送り火の痕跡を発見したと京都大学の研究者が発表しました。

これは、京都大学霊長類研究所の正高信男教授が記者会見を開いて発表しました。
「京都五山送り火」は、300年以上の歴史があるとされ、8月16日の夜に「大」や「船形」など京都市を囲む5つの山の文字や形の火床に火をともします。

明治の半ばごろまではひらがなの「い」の文字の送り火も行われていたとされていますが、その後途絶えて正確な場所が特定されておらず、正高教授は江戸時代の文献などを手がかりに実地調査を繰り返しました。
その結果、京都市左京区の鞍馬二ノ瀬町にある、地元で「安養寺山」と呼ばれる山の高さ100メートルほどの山肌に高さ5メートル、幅15メートルほどのL字型に削った跡が3か所、見つかったということです。

この跡は現在も残る火床の周辺に形状が似ているということで、正高教授はここで「い」の送り火が行われたとみられるとしています。
京都の送り火は、江戸時代には「い」の文字のほかにも京都の各地で行われていたとされていますが詳しいことは分かっておらず、今回の発見が伝統行事の歴史をひもとく鍵となるのか注目されます。

08月08日 17時40分
NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20180808/2010001222.html
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533721838/続きを読む

194

1: みつを ★ 2018/08/08(水) 01:27:55.89 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3184862?act=all

忘れられた医学の「天才」、病院衛生と消毒の父ゼンメルワイス
2018年8月7日 10:55 
発信地:ウィーン/オーストリア [ オーストリア ハンガリー ヨーロッパ ]

【8月7日 AFP】時代を先取りした科学者が、存命中には認められずに無名のまま生涯を終えることは珍しくない。だが、人命を救うことに貢献したあるハンガリー人産科医の功績がようやく日の目を見ることになったのは、生誕200年を迎えた今年だった。

 イグナーツ・ゼンメルワイス(Ignac Semmelweis)は、ルイ・パスツール(Louis Pasteur)による病気の細菌説が広く受け入れられる数十年前も前に、医師は徹底的に手の消毒をしてから患者を扱うべきだと主張していた。だが今日では医療の常識であるこの処置を、当時の医師らは簡単には受け入れなかった。

 1818年7月1日生まれのゼンメルワイスは、1846年にオーストリア・ウィーンの総合病院の産科に勤務し始めた。そこで、医学生の臨床実習を行う病棟の産婦死亡率が10%以上、時には約40%と極端に高いことにすぐに気が付いた。それとは対照的に助産婦の訓練を行う隣接病棟の産婦死亡率は、当時の平均値である3%以下にとどまっていた。

 ウィーンのゼンメルワイス財団(Semmelweis Foundation)理事長のベルンハルト・キューエンブルク(Bernhard Kuenburg)氏はAFPに、「ゼンメルワイスはこの差に大いに困惑し、疫学の徹底的な研究を始めた」と語る。

 1847年にゼンメルワイスの同僚の医師が検視を行った後に敗血症で死亡したとき、疑問は氷解した。遺体には目に見えないが致死的な「微粒子」があるに違いないとゼンメルワイスは考えたのだ。

「当時の医学生は検視を終えると、手を消毒しないで真っすぐ分娩(ぶんべん)の介助に駆け付けていた」とキューエンブルク氏。

 ゼンメルワイスは、せっけんの使用だけでは不十分だと考え、高度さらし粉(塩素化石灰)水溶液による5分間の手洗いを義務付けるという厳しい体制を取った。キューエンブルク氏によると、この「非常に簡単な方法」で、ゼンメルワイスは産婦死亡率を「ほぼゼロまで」下げることに成功した。

■医師会の怒りを買い、不遇の死

 しかし、ゼンメルワイスは称賛を受ける代わりに、ウィーン医師会の重鎮らの怒りを買い、1849年に病院勤務の契約を打ち切られた。キューエンブルク氏は、「当時、医師らの自己評価は非常に高かった。彼らは当然、ひどい産婦死亡率の原因が自分たちにあったという考えを受け入れられず、憤激したのだ」と語る。

 パスツールが「細菌」の存在をついに証明できるようになるまで、まだ四半世紀が必要だった。

 キューエンブルク氏によると、他の医師は証拠を示せと要求した。彼らは「ゼンメルワイスが正しいはずがない。病原体を示すことができないのだから、彼の説はうさんくさい」と退けた。

 同僚の医師らを「人殺し」とまで呼んだゼンメルワイスの激しい気性と立ち回りのまずさも、不利に働いた。晩年、ゼンメルワイスの精神状態は悪化し、1865年に47歳で精神病院で死亡した。

■EUでは院内感染で1日に100人死亡

 ゼンメルワイスの名誉が回復し始めたのは、19世紀末に彼の説がパスツールやドイツ人細菌学者のロベルト・コッホ(Robert Koch)、スイス生まれのフランス人アレクサンドル・イェルサン(Alexandre Yersin)らの発見により証明されてからだ。

 1924年、フランス人の医師で作家のルイフェルディナン・セリーヌ(Louis-Ferdinand Celine)は医学論文をゼンメルワイスにささげ、彼を「天才」と称賛した。

 今日、ゼンメルワイスは病院衛生と消毒の現代的理論の父と見なされている。

 だが、世界保健機関(WHO)の感染予防専門家、ディディエ・ピテ(Didier Pittet)教授はAFPの取材に対し、手の消毒は医療関係者に常識として受け入れられているものの、実践は、いまだに体系立てられていないと語った。同教授によると、手の消毒によって世界中の「院内感染の50~70%を予防できるにもかかわらず」、順守率は「平均して50%」だという。
(リンク先に続きあり)
(c)AFP/Philippe SCHWAB
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1533659275/続きを読む

↑このページのトップヘ