(遅報)歴史まとめ

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カテゴリ: ニュース

1: 朝一から閉店までφ ★ 2017/06/09(金) 18:22:48.17 9
社会
天皇陛下の退位特例法の成立で「三種の神器は非課税」というパワーワード

退位特例法が成立

 天皇陛下の退位を実現する特例法が9日午前、参院本会議で自由党を除く全会一致で可決、成立した。政府は2018年12月下旬に退位と皇太子さまの新天皇即位を実現し、19年元日に元号を改めるという日程を検討している。退位の道が開かれたのは1817年の光格天皇以来約200年ぶりのことで、退位後、天皇陛下は「上皇」、皇后さまは「上皇后」となる。

 政府は16日に特例法を公布する予定だが、そこに織り込まれるある規定が、ネットで話題となっている。「歴代天皇が継承してきた『三種の神器』は贈与税を非課税」という一文である。

 三種の神器とは日本の歴代天皇が継承してきた3種の宝物のことで、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を指す。2014年、三重県の伊勢神宮に両陛下が参拝された際に20年ぶりに携行され話題となった。

 古来より受け継がれている三種の神器が現代の税法上でどのような扱いを受けるのかが明らかとなったわけだが、果たして一般的な「贈与」として扱って良いものなのかという疑問が浮かぶ。それはそれとして、「神器」と「非課税」という言葉のもつイメージの落差にTwitterでは、
「『三種の神器は非課税』というパワーワードに触れられただけで、自分が日本人であることがとても楽しく幸せな気分になれたので良きかな。」「いや三種の神器に税かかるって何やそれ…面白すぎるだろ…尋常じゃない言葉の力を感じる…… ってなる」との声が上がっている。

 また「三種の神器って天皇個人に所有権がある動産扱いなんですね。特例で贈与税が非課税ってことは、非課税枠110万円よりも評価額は上で、理論上では評価額がつくという解釈なのでしょうか」「三種の神器の評価額決めろと言われたら、国税庁も困るだろうな……。
売買実例があるわけないし、耐用年数とか減価償却とかどう計算しろと」と、実在するかどうかも諸説ある「三種の神器」についてあれやこれやと妄想が膨らんでいるようである。

2017年6月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです
https://www.dailyshincho.jp/article/2017/06091820/?all=1
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/dqnplus/1497000168/
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496983979/続きを読む
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1: (?∀?(⊃*⊂) ★ 2017/06/09(金) 13:00:14.39 ID:CAP_USER9
京都市中京区新町蛸薬師北西角の発掘調査で、鎌倉時代末-室町時代初頭とみられる地下室(室(むろ))が見つかった。
床は平らな石で固められており、有力な商人が設けた可能性がある。

室町時代以降に捨てられた灰やごみから土器や陶磁器片をはじめ、魚や動物の骨が多数出土。
研究者らは「中世の商人の食生活など暮らしぶりを知る上で貴重だ」と注目している。

民間調査会社「京都平安文化財」が3~5月に調査した。
室は南北2・1メートル、東西5・4メートルで、14世紀ごろに造られたとみられる。

床に直径約20センチの石を並べ、その周囲に小石を敷き詰め、排水用の穴も設けられていた。
市文化財保護課は「中世の室は土の床が多く、これほど丁寧に石で整地した室は珍しい」としている。

室は壊され埋められており、その上に灰や炭などが何層も重なっていた。ごみ捨て場になったとみられ、鎌倉-室町時代の土器や輸入物を含む陶磁器の破片、貨幣のほか、食べられたとみられる魚や動物の骨などが大量に含まれていた。

調査地が面する町尻小路(新町通)は、中世の下京で経済中心地の一つだった
。周辺の六角町では、琵琶湖の魚の専売特権を持つ集団「粟津橋本供御人(くごにん)」が店を出していたことが知られている。

奈良大の河内将芳教授(日本中世史)は「当時は魚屋以外にも多様な店が軒を連ねていたはず。
室を備えた何らかの大規模な店があった」と推測する。
高価な中国の陶磁器片が出土しており、「有力な商人たちの経済活動を裏付けられる」と期待する。

見つかった骨には、ハモやサワラ、ブリなど海で捕れる魚のほか、犬やウサギなどの動物、ツルかコウノトリとみられる大型の鳥などが含まれていた。

東海大の丸山真史講師(動物考古学)は「京都中心部の食生活の変遷を知る上でも貴重な発見だ」と注目する。

http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20170609000061

出土した魚や動物などの骨。鎌倉-室町時代の人々の幅広い食生活がうかがえる
20170609113301hakkutusita
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496980814/続きを読む
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1: みつを ★ 2017/06/08(木) 06:41:53.39 ID:CAP_USER9
http://www.afpbb.com/articles/-/3131217?act=all

【6月8日 AFP】現生人類ホモ・サピエンスは、30万年前にアフリカに生息し、現代の人々とそう変わらない顔つきをしていたとする論文が7日、発表された。人類の起源が定説より10万年早かったことを示す研究結果だ。

 ホモ・サピエンスは約20万年前にアフリカ東部に現れたというのが20年来の通説だったが、英科学誌ネイチャー(Nature)に掲載された2件の論文によれば、これを覆す画期的な化石がモロッコで見つかった。

 この発見により人類の進化の系統図が書き換えられ、既に絶滅したホモ属の一部が人類の祖先としての候補から除外される可能性もある。

 2件の論文は、古代人類5人の頭蓋骨と骨のかけらや、狩猟や食肉処理に使われていた石器に基づくもの。いずれも、現在のマラケシュ(Marrakesh)に近いジェベリルー(Jebel Irhoud)にある先史時代の野営地から見つかった。

 独マックス・プランク進化人類学研究所(Max Planck Institute for Evolutionary Anthropology)の古人類学者、ジャンジャック・ユブラン(Jean-Jacques Hublin)氏は「この資料は人類の起源を示すもので、アフリカを含むあらゆる場所で見つかった中で最も古いホモ・サピエンスだ」と語っている。

 これまで最も古いとされてきた19万5000年前の化石は、エチオピアで見つかった。この発見は、アフリカ東部が進化上の「エデンの園」、つまり、人類がアフリカ内外へと広まった起源の地であるとの説につながった。

 研究チームは、新たな発見により、いわゆる「人類のゆりかご」がアフリカ全土に広がっていたことが示されると指摘している。

 モロッコで見つかったのと同じ種類の「中石器時代」の石器は、すでにアフリカ各地で見つかっていて、年代もおおむね同じとされているが、これまではホモ属内の別種の人類が作ったと考えられてきた。

 だが今回の発見により、すでにアフリカ中に広まっていた現生人類がこれらの石器を作っていた可能性が高まった。(c)AFP/Laurence COUSTAL/Mariëtte Le Roux

2017/06/08 04:59(パリ/フランス)

モロッコで見つかったホモ・サピエンスの頭蓋骨化石を手にする仏古人類学者のジャンジャック・ユブラン氏(右)とモロッコ国立考古学遺物研究所のAbdelouahed Ben-Ncer氏(2017年6月6日撮影)。(c)AFP/PATRICK KOVARIK
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http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496871713/続きを読む
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1: 紅あずま ★ 2017/06/07(水) 08:27:20.30 ID:CAP_USER9
特攻隊員、最後に機内で食べた菓子…老舗が再現
読売新聞:2017年06月07日 07時49分
http://www.yomiuri.co.jp/national/20170607-OYT1T50021.html

20170607-OYT1I50005-N
再現された菓子

 太平洋戦争中、海軍鹿屋航空基地が置かれた鹿児島県鹿屋市にある菓子店「富久屋(ふくや)」が、特攻隊員向けに作っていた「タルト」と呼ばれる菓子を再現した。

 貴重だった砂糖を使い、出撃前の隊員に渡されていたという。
毎年、追悼行事を営む女将(おかみ)の北村馨さん(77)は、「国や家族を思って亡くなった若者たちを思い出し、平和の尊さを考えるきっかけになれば」と話している。

 富久屋は1860年頃に創業した老舗。
海軍から支給された砂糖などを原料に菓子を作って基地に納めており、「海軍御用達 若松菓子店」の看板を掲げていた。

 店に遊びに来る隊員も多く、幼かった北村さんを妹のようにかわいがってくれた。
親しい隊員の出撃日には、屋根の上から空を見上げた。
別れを告げるように低空飛行で旋回し、白いマフラーをなびかせる姿を今も覚えているという。

 昨秋に親族が集まった際、隊員が機内で食べるための菓子を店で作っていたことを初めて聞いた。
基地で働いていた11歳年上の姉も、出撃前の隊員たちが菓子をポケットに入れていた様子を思い出した。
こうした話を聞き、「彼らが最後に口にした菓子を遺族にも味わってほしい」と考えた。

 レシピや資料が残っていなかったため、姉や店で働いていた人から味や形などを聞いた。
当時、店で用意できた材料からレシピを推測。
今年2月頃から、職人らと試作を重ね、小麦粉と卵、砂糖などを混ぜて焼き上げたスポンジ生地に、小豆あんを挟んだ菓子を完成させた。
空の上でも片手で食べられるようにと、細長く切り、1本ずつパラフィン紙で包んでいた点も再現した。

 4月上旬、北村さんら有志が16年前から鹿屋市主催の慰霊祭に合わせて営んでいる追悼行事で、参加した遺族に配ったところ、「最後の瞬間にひもじい思いをしていなかったようで安心した」との声を聞いた。

 売り物にする予定はなかったが、戦争について多くの人に考えてもらうきっかけになればと、5月から1本180円で販売を始めた。
売り上げの一部は、追悼行事の資金にするという。

 北村さんは、店で菓子を作る時、特攻隊員がどんな思いで食べたのかを想像すると涙があふれるという。
「今の人には物足りない味かもしれないが、彼らにとっては、一瞬でもつらい気持ちが和らいだはず。多くの若者が最後の時間を過ごした鹿屋だからこそ、戦争の記憶をつなぐ責任があると思っています」と話した。

 ◆海軍鹿屋航空基地=1936年に設置された。
同基地での特攻作戦は45年3~6月に行われ、908人の特攻隊員が零式艦上戦闘機(零戦)などで出撃し亡くなった。
隊員の年齢は16~35歳だった。
敷地は現在、海上自衛隊鹿屋航空基地となっている。

20170607-OYT1I50004-N 
「海軍御用達」の看板を掲げていた頃の店の写真(富久屋提供)
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496791640/続きを読む
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1: 名無しさん@涙目です。(茸)@\(^o^)/ [GB] 2017/06/07(水) 16:09:09.64 ID:Awzqn96U0 BE:155743237-PLT(12000) ポイント特典
砲弾の届け出が5月下旬から県内各地で相次いでいる。6日までに70発以上が確認され、いずれも旧日本軍製だった。連日の報道を受け「うちにもある」と警察に連絡が寄せられているが、神社の石碑に取り付けられるなど、奉納品とみられるケースも多い。
近代史の専門家は「当時の世相を伝える貴重な史料。危険性がなければ、そのまま残してほしい」と求める。

県警によると砲弾は6日現在、13市町47カ所で計79発確認された。
大半は神社の境内や拝殿で見つかり、「征露記念」「忠魂碑」などの文字が記された物も。
神棚に飾っていた民家もあった。 「戦場から無事に帰ってきた軍人が感謝を込めて、奉納したのだろう」
と語るのは県立先哲史料館(大分市)の元専門員、加藤泰信さん(79)。
日露戦争(1904~05)などの従軍記念で納めたと推測し、「神社は地域の中心。置くにはいい場所だったはず」と考える。

加藤さんによると、明治維新以降、神社は国家神道の下で国民の精神的支柱となった。
45年の太平洋戦争終戦まで、国民の好戦意識を支えるよりどころで、出征前には地域の神社で「戦勝祈願」「武運長久」を祈るのが習わしだった。
 
41年から終戦まで、武器生産の材料を確保するため、家庭や学校などに「金属類回収令」が出されたが、神社の砲弾はそのまま残されたことになる。
加藤さんは「砲弾は戦勝祈願のシンボルであり、軍事思想を支える物だった。
生還した兵士の奉納品でもあり、手を付けられなかったのではないか」。

砲弾を通して当時の姿が透けて見える。しかし、信管と火薬が残っていれば話は別。
爆発する可能性はあり、陸上自衛隊が回収、処分する。

県警生活安全企画課は「危険物という認識がなく、飾っているだけでは法的に問題はない。
安全かどうかの判断は難しいので、気になったら警察に届け出てほしい」と呼び掛けている。

新たに19発確認
6日は大分、別府、中津、佐伯、宇佐、玖珠の6市町の神社や住宅で計19発が確認された。
警察に届け出があり、信管が残っている砲弾もあった。別府市朝見の八幡朝見神社では、境内の石碑に砲弾2発が取り付けられていた。

https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2017/06/07/JD0055825708
http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1496819349/続きを読む
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1: イセモル ★ 2017/06/07(水) 13:42:32.01 ID:CAP_USER9
【6月7日 AFP】大型肉食恐竜ティラノサウルス・レックス(T・レックス、Tyrannosaurus rex)は鳥類のような羽毛ではなく、爬虫(はちゅう)類に見られるうろこに覆われていたとする研究結果が7日、英国王立協会(Royal Society)の専門誌バイオロジー・レターズ(Biology Letters)に発表された。

最近の研究ではT・レックスの祖先がうろこではなく羽毛で覆われていたことを示す証拠が見つかったという主張が展開され、T・レックスも同じだったのではないかとされていた。

こうした発見は、T・レックスのような大型恐竜には体を温めたり飛んだりする必要がなかったため羽毛には覆われていなかったという、それまで長年支持されてきた主張に異議を唱えるものだったが、今回の研究結果は頑強な皮膚と恐ろしい殺傷能力を持つT・レックスの名誉を挽回するものとなっている。

新しい研究では、科学者の国際チームがT・レックスやティラノサウルス科に属するT・レックスの近縁種の博物標本を使用し、その表皮の状態をデータベース化して調査を実施。調査対象には、ヒューストン自然史博物館(Houston Museum of Natural Science)が所蔵するT・レックスの首の表皮、骨盤、尾の標本や、ティラノサウルス科の近縁種4体の標本も含まれている。

ティラノサウルス科の恐竜は白亜紀後期(Late Cretaceous)に当たる9900万年前~6550万年前に生息していたが、小惑星が地球に衝突し、陸上の恐竜は絶滅した。

研究チームは、白亜紀後期に入った頃にはそのはるか昔から生息していたティラノサウルス科の恐竜にあった「広範囲を覆う羽毛」は、T・レックスと近縁種の共通の祖先から既に失われていたと結論づけている。

研究チームによると、調査した博物標本のデータからT・レックスの全身がうろこに覆われていたと推定できる「有力な証拠」が得られ、「(すべてではないにせよ)大半の大型ティラノサウルス科の恐竜がうろこに覆われており、一部だけが羽毛で覆われていたとしたら背部に限られる」ことを示唆しているという。

今回の研究結果は、T・レックスの祖先がうろこから羽毛へと進化したにもかかわらず、なぜT・レックスが再びうろこに覆われるようになったのかという疑問を提起している。(c)AFP

http://www.afpbb.com/articles/-/3131112
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496810552/続きを読む
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1: ののの ★ 2017/06/06(火) 21:02:43.96 ID:CAP_USER9
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/
2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4~前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2~7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2~3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496750563/続きを読む
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1: 記憶たどり。 ★ 2017/06/05(月) 14:50:59.91 ID:CAP_USER9
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170605-00000047-asahi-soci

織田信長(1534~82)が開いた茶会を記録した茶会記が新たに見つかった。
道具の取り合わせや料理の献立も記されていた。調査した古田織部美術館(京都市)によると、信長の茶会記が確認されるのは1935年以来、82年ぶりという。

広島藩士・三好家に伝わる記録で、宮下玄覇(はるまさ)・同館館長が数年前に入手した書状などの中から発見。堺の豪商・天王寺屋の主人で、千利休や今井宗久(そうきゅう)とともに茶の湯の天下三宗匠と呼ばれた津田宗及(そうぎゅう)が記したとみられる。「津田宗及御会席付(おんかいせきつけ)」と題され、軸装されていた。同館は筆跡などから真筆とみている。

天正2(1574)年5月2日の日付と「於 御殿様(=信長)御会」の記述があり、場所は記されていないが、当時の信長の動静から京で開かれたと推定される。
京の茶の湯者・不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)が点前し、宗及の叔父や京の有力町衆らを客にしたらしい。イカやかまぼこなどのほか、これまで知られていない「餡(あん)つけ鱒(ます)」という料理もあった。

新たに見つかった織田信長の茶会記
20170605-00000047-asahi-000-view
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1496641859/続きを読む
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