(遅報)歴史まとめ

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タグ:イブン・サウード

533: 名無しの司馬遷 2014/08/18(月)22:18:14 ID:fDAWdE8bk
第一次世界大戦後、肥沃三日月地帯の束の間の平穏とは裏腹に、南のアラビア砂漠は風雲急を告げていた。
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サウード王家の当主、アブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは天性の覇王である。
ガートルード・ベルは彼を「政略家にして治平の人、そして略奪者。歴史的典型を例証」とレポートした。
つまり、20世紀に生きながら古代中世のあまたの英雄たちと同じ気質、同じ素質を持つ男。
砂漠の豹をいつまでも鎖に繋いでおくことなど、所詮無理な相談だった。

大戦終了後、いや増すサウード家の力を警戒した英国は、その仇敵たるラシード家に乗り換えた。
だが、ラシード家の都ハーイルには陰謀が渦巻き、当主イブン・ラシードは兇刃に倒れる。
宿敵倒るの報を受けたイブン・サウードは直ちに北進し、1921年11月にハーイルは陥落。

イブン・サウードの次なる標的はヒジャーズ王国。
両聖都の守護者という栄誉、巡礼者が落とす莫大な収入。いずれも豹の食欲をそそる。
1924年4月、イブン・サウードはヒジャーズに侵攻開始。
太守フサインは国を捨てて逃れ、サウード軍は聖都メッカに無血入城を果たした。
そして1925年にはメディナとジェッダも陥落し、ヒジャーズ王国はあっけなく滅亡した。

イブン・サウードは、ペルシア湾岸に点在するいくつかの英国保護領を除き、アラビア半島全土の平定を達成した。
しかし彼の進撃はここで停止する。
イブン・サウードはあくまでも砂漠の王であり、アラビアの外には何ら興味はなかったらしい。
生涯を通じて彼が砂漠の外に出たのは、ほんの数回に過ぎない。
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462: 名無しの司馬遷 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、
セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。
前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。
それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。
「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」

「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。
しかし、根本的な理由はシンプルだ。

ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。
しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。

各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。
ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた
各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。

サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。
するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。
オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。
ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。
攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。
かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。

結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。

「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国
「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国
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