(遅報)歴史まとめ

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タグ:オスマン帝国

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166: 名無しの司馬遷 2014/07/23(水)22:40:47 ID:vyntEzX1B
さてプルート川でピョートル大帝を撃退し、カール12世をポイ捨てした後のオスマン帝国である。

オスマン帝国としては近頃不気味に力を増しつつある西の異教徒どもに積極的に関わる気はなかったのだが、
ロシア撃退でそこそこの自信も回復してきたので、地中海でうろちょろするヴェネツィア共和国に対して大国の威厳というものを軽く教育してくれようという気になった。

ところがヴェネツィアとの小戦は、油断なくオスマン帝国の動向を見張っていた列強の警戒心を刺激したらしく、再びハプスブルク朝オーストリアとの全面対決となってしまった。

この戦争において、オスマン帝国はとある敵将に無双乱舞を食らわされ、いたるところで敗走する。
その敵将の名は「プリンツ・オイゲン」。
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フランスの太陽王ルイ14世の落胤とも噂される不世出の名将であり、そういえば去る大トルコ戦争でもハンガリーのゼンタで3万人ものトルコ兵を川に追い詰めて溺死された天敵であった。
今度の戦争ではオイゲンがオーストリア軍の総司令官となり、大宰相を敗死させ、ベオグラードを陥落させた。
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83: 名無しの司馬遷 2014/07/20(日)17:23:48 ID:dkU8dQkVy
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メフメト2世は「征服王」と言われるが、実際そこまで戦争がうまかったわけではない。
東ヨーロッパでの勢力拡大には苦労し、モルダビアやワラキア、アルバニアといった小国に最後まで抵抗された。
ちなみに現在のルーマニア南部にあたるワラキア公国を支配していたブラド3世は
オスマン軍の捕虜たちを串刺しにして侵入するオスマン軍を動揺させ、夜襲をかけてメフメト2世の天幕に肉薄した。

のちの「ドラキュラ公」のモデルである。
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以上余談。

真に「征服王」というのにふさわしいのは、メフメトの孫のセリム1世だろう。
彼は東のペルシアを破り、シリア・エジプトを征服し、三大陸に広がるオスマン帝国を確立したのだ。
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ところでその前に、ティムール帝国崩壊後のペルシア(イラン高原)の情勢を見ておきたい。

イラン高原ではティムール帝国崩壊後、群雄角逐の中で「白羊朝」と「黒羊朝」という二大勢力が台頭していた。
どちらもアゼルバイジャンあたりの遊牧部族で、もちろんイスラームを信じてはいたものの、
昔ながらのシャーマニズムの影響も残っていたのか、白い羊や黒い羊を自部族の象徴としていたらしい。

白羊朝のもとで盛んに蠢動する不穏な教団組織があった。
サフィー・アッディーン・ユースフという修行者が創始したこの教団をサファヴィー教団という。

たびたび白羊朝に弾圧を受けながらも勢力を蓄え、ときに白羊朝と協調して王女を教主の妻に迎えることもあった。

白羊朝が衰えた1499年、わずか12歳だった教主イスマーイールは各地の教徒に檄文を発した。
「今こそ我らの時がきた。決起せよ! 地上の楽園を実現せん!」

天才少年である。
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70: 名無しの司馬遷 2014/07/20(日)15:14:13 ID:dkU8dQkVy
ダラダラダラと語ってきてしまったので、ここまでの大きな流れを整理してみたい。

まず、7世紀にササン朝ペルシアと東ローマ帝国が大戦争を続けているさなか、
突然アラビア半島で「イスラーム」という宗教が誕生し、「正統カリフ」たちの指導のもとで
アラブ族たちが「大征服」を開始する。ササン朝はあっさり崩壊し、東ローマも領土の半分を失う。

アラブ族たちは内乱を経て「ウマイヤ朝」を立てる。
ウマイヤ朝はさらに拡大し、東は中央アジア、西はイベリア(スペイン)にまで達する。
言い忘れていたけど、中世イスラーム世界の地理認識ではイラク・シリアあたりを中央として、
それより東のイラン・中央アジアを「マシュリク」(東方)、北アフリカ・イベリアを
「マグレブ」(西方)と呼んでいた。

ウマイヤ朝ができて100年ぐらいすると、中央アジアで反乱が起こって「アッバース朝」が誕生する。
このアッバース朝は、アラブ人中心のウマイヤ朝とは違ってペルシア人を重用した。
これ以後、イスラームを生み出したアラブ族は、とくにマシュリクではどちらかというと二線級の存在になる。

ところがアッバース朝は広大すぎる領土を統制しきれず、各地で地方政権が成立。
イベリア(アンダルス)の後ウマイヤ朝、北アフリカ(イフリーキヤ)のファーティマ朝は「カリフ」の称号すら名乗った。

東方では9世紀頃からテュルク系遊牧民が流入開始。
最初は傭兵として、のちには征服者としてイスラーム世界の東半分を制覇する。
12世紀頃までには、マシュリクは武人であるテュルク人と文官であるペルシア人が君臨する世界になった。
エジプトより西のマグレブでは依然アラブ系が主流。

ちなみにこの頃までに、イスラームという宗教はウマイヤ朝やアッバース朝の領土をさらに越えて拡大している。
「イスラーム」というのは聖職者がなく、一般的なイメージに反して異教徒を改宗させることにはあまり熱心ではない。
しかしアッバース朝のもたらした平和のもとでインド洋全域に乗り出した交易商人たちや、砂漠や草原を行く隊商たちは
訪れた各地の人々に「イスラーム」という宗教の存在を印象づけた。
とくに西アジアに比べてあまり文明の進んでいない地域(ほとんどどこでもそうだけど)では、
「イスラーム」は文明の象徴として受容される傾向にあった。

13世紀、モンゴル帝国が成立するころまでに、「イスラーム」はサハラ砂漠の南のニジェール流域、東アフリカの沿岸部、北インドと南インドの沿岸地域、内陸ユーラシアの大草原、南シベリア、
そして中国南部の沿岸地域にまで伝播していた。
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1: 名無しの司馬遷 2015/03/19(木) 16:58:36.02 ID:vSCAhKv90.net BE:711292139-PLT(13121) ポイント特典
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【3月19日 AFP】トルコのチャナッカレ(Canakkale)で18日、第1次世界大戦中に行われた「ガリポリの戦い(Gallipoli Campaign)」から100年を記念した式典が催された。
この戦いは、連合軍が当時のコンスタンティノープル(Constantinople、現在のイスタンブール、Istanbul)占領を目指しオスマン帝国軍と戦ったもので、オスマン軍が勝利。
トルコでは、共和国建国に欠かせなかった輝かしい勝利とたたえられている。(c)AFP

https://www.youtube.com/watch?v=DaQjxCES5QE



http://www.afpbb.com/articles/-/3042980

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