83: 名無しの司馬遷 2014/07/20(日)17:23:48 ID:dkU8dQkVy
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メフメト2世は「征服王」と言われるが、実際そこまで戦争がうまかったわけではない。
東ヨーロッパでの勢力拡大には苦労し、モルダビアやワラキア、アルバニアといった小国に最後まで抵抗された。
ちなみに現在のルーマニア南部にあたるワラキア公国を支配していたブラド3世は
オスマン軍の捕虜たちを串刺しにして侵入するオスマン軍を動揺させ、夜襲をかけてメフメト2世の天幕に肉薄した。

のちの「ドラキュラ公」のモデルである。
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以上余談。

真に「征服王」というのにふさわしいのは、メフメトの孫のセリム1世だろう。
彼は東のペルシアを破り、シリア・エジプトを征服し、三大陸に広がるオスマン帝国を確立したのだ。
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ところでその前に、ティムール帝国崩壊後のペルシア(イラン高原)の情勢を見ておきたい。

イラン高原ではティムール帝国崩壊後、群雄角逐の中で「白羊朝」と「黒羊朝」という二大勢力が台頭していた。
どちらもアゼルバイジャンあたりの遊牧部族で、もちろんイスラームを信じてはいたものの、
昔ながらのシャーマニズムの影響も残っていたのか、白い羊や黒い羊を自部族の象徴としていたらしい。

白羊朝のもとで盛んに蠢動する不穏な教団組織があった。
サフィー・アッディーン・ユースフという修行者が創始したこの教団をサファヴィー教団という。

たびたび白羊朝に弾圧を受けながらも勢力を蓄え、ときに白羊朝と協調して王女を教主の妻に迎えることもあった。

白羊朝が衰えた1499年、わずか12歳だった教主イスマーイールは各地の教徒に檄文を発した。
「今こそ我らの時がきた。決起せよ! 地上の楽園を実現せん!」

天才少年である。
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