(遅報)歴史まとめ

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タグ:フサイン・マクマホン協定

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510: 名無しの司馬遷 2014/08/17(日)22:17:14 ID:UZZseBJP0
さて、旧オスマントルコ帝国領の南半分、シリアとメソポタミアはどのような運命をたどったのだろうか。

世界大戦さなかの1915年、大英帝国エジプト高等弁務官アーサー・マクマホンはメッカの太守ハーシム家のフサインと「フサイン・マクマホン協定」を結び、肥沃三日月地帯のほぼ全域にわたるアラブ国家建設を約束することでハーシム家を対トルコ反乱に立ち上がらせた。

ところが、1917年に連合国の一角、ロシアで革命が勃発したことがきっかけとなり、衝撃の事実が明るみに出た。
ロシアの政権を掌握したボリシェヴィキ(共産主義者)たちは「資本家どもの戦争なんぞやめちまえ!」と訴えかけるべくロシア帝国外務省に保管されていたあらゆる外交文書の暴露祭りを敢行。

当時の外交交渉というのは基本的に秘密主義だったので、ウィキリークスどころではない大騒動になる。

ここで暴露された文書のなかに、極めて不穏な秘密協定が存在した。「サイクス・ピコ協定」である。
これによれば戦後に肥沃三日月地帯を英仏で山分けすることになっている。
三日月地帯の西半分であるシリアをフランス、東半分であるメソポタミアをイギリスが押さえるというのだ。
どう考えてもフサイン・マクマホン協定と矛盾する。
ちなみにこの協定の英国側代表マーク・サイクスは、アラブの反乱を煽り立てた当のアラブ局の一員であるという怪。

それだけではない。
1916年には英国外相アーサー・バルフォアがシオニスト会長のロスチャイルド卿に「バルフォア宣言」なるものを出している。
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462: 名無しの司馬遷 2014/08/13(水)23:54:50 ID:AKHwF3e5a
1914年6月28日、オーストリア帝国の皇太子フランツ・フェルディナンド夫妻が、
セルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。
この「サラエボ事件」が未曾有の大戦争の発端になる。

つまるところは、この事件もまた「ナショナリズム」という「疫病」のひとつの発作だった。
前提として、前年まで続いていたバルカン戦争を通じてセルビア王国の領土が著しく拡大。
それがオーストリア帝国支配下にあったボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア民族を刺激したのだ。
「我々の母国たるべきはセルビア。オーストリアは異邦の暴君ではないか」

「第一次世界大戦の原因」というのは、後から振り返れば幾つも挙げることができる。
しかし、根本的な理由はシンプルだ。

ヨーロッパでは1871年に普仏戦争が終了して以来、40年以上にわたって大きな戦争は発生していなかった。
しかし列強間の関係は緊張をはらみ、同盟と敵対が目まぐるしく切り替わり続けたゆえに、各国はいつ何時でも変事が発生すれば直ちに国内総動員をかけ、隣国へ侵攻できる準備を整えていた。

各国は何も好んで大戦争を引き起こしたかったわけではない。
ただ、当事者たちの希望に関わりなく、すでにいつでも戦争を始められるように整えられていた
各種の機構や計画が、ほとんど自動的に次々と動き出してしまったのだ。

サラエボ事件が発生すると、オーストリアはセルビア王国に宣戦布告した。
するとスラブ民族の盟主を自認するロシアがセルビア側に立ってオーストリアに宣戦。
オーストリアの友邦ドイツ帝国はオーストリア側で参戦。
ドイツはロシアに加え、ロシアと同盟するフランスへ先制攻撃開始。
攻撃されたフランスはドイツとオーストリアに宣戦。
かねてドイツの興隆を警戒し、英露協商・英仏協商を締結していた英国もドイツとオーストリアに宣戦。

そしてオスマントルコ帝国は、唯一頼りにすべき列強ドイツとともに立ち、失われたバルカン半島を再征服し、あわよくば永遠の宿敵ロシアに対して今一度の反撃を試みようとした。

結果、列強の振り分けは以下の通りとなる。

「連合国」:大英帝国、フランス共和国、ロシア帝国、イタリア王国
「中央同盟国」:ドイツ帝国、オーストリア帝国、オスマントルコ帝国
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