(遅報)歴史まとめ

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タグ:南下政策

316: 名無しの司馬遷 2014/08/03(日)00:59:27 ID:bhCxUjweB
一方、サファヴィー朝の成立以来イランはシーア派に染まっている。

シーア派は第4代正統カリフ、アリーの子孫だけがイスラーム世界を正しく導く力を持つ「イマーム」だと信じているのだが残念ながら歴代イマームはウマイヤ朝やアッバース朝から迫害されまくった挙句、第12代にして行方不明となった。

というか、後期のイマームは迫害を避けたり幽閉されたりほとんど世間に姿を現さず、
12代目なんて父親の葬式で半日姿を現した以外は一切消息不明なんで、
そもそも実在したのかどうかすら(以下検閲により削除)

ま、いずれにせよイマームが行方不明という遺憾な事態により、シーア派(の大多数)は、
イマーム再臨までのあいだ、最も有能なイスラーム法学者がイマーム代行として信徒を指導するという妥協案でもって合意した。

まあ何が言いたいかというと。

1.イスラーム法学者がやたら偉そうである
2.民衆は「いつか真のイマームが再臨して世直ししてくれんかのう」と常に期待している。

そういうわけで、ガージャール朝ペルシアでは誰もが明後日の方向を向いてる状態だった。

国王は少数の同族で国民を支配するために圧制に走る。
法学者はことあるごとに政治に首を突っ込んで騒ぎ立てる。
民衆は「どっかの小瓶の中に老人が閉じ込められていて、そのうち救世主になって飛び出すらしい」とかどこのアラビアンナイトだと言いたいくなるような噂を語り合っている。

そしてもうひとつ軍隊。

これがまた使えない集団で、戦果報告書ひとつ取っても、
「戦死者少数とか報告すると王の威厳に関わるから、とりあえず景気よくしとこう」などと余計な気を回し、
「大地は流れる鮮血もて洪水となり、全アジアの奴隷市場は夥しい捕虜によって価格暴落したり」などと誰が見ても嘘だろうというレベルで内容を膨らましまくる始末。


舐められるのも無理はないわけで、ロシアはナポレオン戦争の真っ只中も含めて何度もイランに攻め込み、そのたびに勝利。
1828年のトルコマンチャーイ条約でカフカス地方をまるごともぎ取り、治外法権を押し付けることに成功した。

要するに、ガージャール朝はとことんヘタレであった。
この一言に尽きる。
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230: 名無しの司馬遷 2014/07/27(日)21:42:42 ID:x0dRjz4tl
墺土戦争とアフシャール戦役で連敗して以後、長らくヒキコモリ主義を優先してきたオスマン帝国は、1768年に久しぶりに本格戦争に巻き込まれる。
運悪く、黒海北方のポーランド領ウクライナで起こった民衆反乱に巻き込まれたのであった。

ピョートル大帝から半世紀以上を経て、ロシアは女帝エカチェリーナ2世の時代になっていた。
衰亡期に入ったオスマン帝国軍は黒海西岸を順当に敗走し続けた。
no title
1768年に「キュチュク・カイナルジ条約」という例のごとく発音困難な条約が締結された。
その結果、長らくオスマンの従属国だった黒海北岸のイスラーム国家、クリミア・ハン国が独立もといロシアの属国化。
そしてワラキア・モルダビア二国もロシアの保護領となった結果、オスマン帝国は現在のルーマニア全土を喪失し、ドナウ川以北がすべてロシアの影響圏となった。

ちなみにクリミア・ハン国というのは、14世紀に分裂解体したジュチ・ウルスの最後の名残にあたる。
首都はクリミア半島南部のバフチサライ。
狭隘な地峡で本土ウクライナと隔てられたクリミア半島は、守るに易く攻めるに難い。
イヴァン雷帝の頃までは、クリミア・ハン国の騎兵はしばしば北上してロシアの町々を急襲し、
時に首都モスクワをすら焼き払ったものだった。

その後もクリミア・ハン国は南の海の向こうにあるオスマン帝国による無言の支援を受けて
北のかたロシアに降ることなく、ロシアはクリミア騎兵の脅威を恐れて、長らく「ハンへの貢納」をすら続けていた。

オスマン帝国の庇護を失ったクリミア・ハン国はわずか9年後、ロシアに強制的に併合される。
自国を奪われたクリミア最後のハンは遠くエーゲ海の岸辺で生涯を終え、チンギス・ハン直系子孫の王国は地上から永遠に消滅することとなる。
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