70: 名無しの司馬遷 2014/07/20(日)15:14:13 ID:dkU8dQkVy
ダラダラダラと語ってきてしまったので、ここまでの大きな流れを整理してみたい。

まず、7世紀にササン朝ペルシアと東ローマ帝国が大戦争を続けているさなか、
突然アラビア半島で「イスラーム」という宗教が誕生し、「正統カリフ」たちの指導のもとで
アラブ族たちが「大征服」を開始する。ササン朝はあっさり崩壊し、東ローマも領土の半分を失う。

アラブ族たちは内乱を経て「ウマイヤ朝」を立てる。
ウマイヤ朝はさらに拡大し、東は中央アジア、西はイベリア(スペイン)にまで達する。
言い忘れていたけど、中世イスラーム世界の地理認識ではイラク・シリアあたりを中央として、
それより東のイラン・中央アジアを「マシュリク」(東方)、北アフリカ・イベリアを
「マグレブ」(西方)と呼んでいた。

ウマイヤ朝ができて100年ぐらいすると、中央アジアで反乱が起こって「アッバース朝」が誕生する。
このアッバース朝は、アラブ人中心のウマイヤ朝とは違ってペルシア人を重用した。
これ以後、イスラームを生み出したアラブ族は、とくにマシュリクではどちらかというと二線級の存在になる。

ところがアッバース朝は広大すぎる領土を統制しきれず、各地で地方政権が成立。
イベリア(アンダルス)の後ウマイヤ朝、北アフリカ(イフリーキヤ)のファーティマ朝は「カリフ」の称号すら名乗った。

東方では9世紀頃からテュルク系遊牧民が流入開始。
最初は傭兵として、のちには征服者としてイスラーム世界の東半分を制覇する。
12世紀頃までには、マシュリクは武人であるテュルク人と文官であるペルシア人が君臨する世界になった。
エジプトより西のマグレブでは依然アラブ系が主流。

ちなみにこの頃までに、イスラームという宗教はウマイヤ朝やアッバース朝の領土をさらに越えて拡大している。
「イスラーム」というのは聖職者がなく、一般的なイメージに反して異教徒を改宗させることにはあまり熱心ではない。
しかしアッバース朝のもたらした平和のもとでインド洋全域に乗り出した交易商人たちや、砂漠や草原を行く隊商たちは
訪れた各地の人々に「イスラーム」という宗教の存在を印象づけた。
とくに西アジアに比べてあまり文明の進んでいない地域(ほとんどどこでもそうだけど)では、
「イスラーム」は文明の象徴として受容される傾向にあった。

13世紀、モンゴル帝国が成立するころまでに、「イスラーム」はサハラ砂漠の南のニジェール流域、東アフリカの沿岸部、北インドと南インドの沿岸地域、内陸ユーラシアの大草原、南シベリア、
そして中国南部の沿岸地域にまで伝播していた。
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