(遅報)歴史まとめ

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タグ:織田信長

1: 坊主 ★  2016/09/23(金) 23:37:43.61 ID:CAP_USER
http://www.news-postseven.com/archives/20160916_448629.html
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 滋賀県大津市にある比叡山延暦寺は788年、天台宗の宗祖・最澄により開山された。以後1200年間、鎮護国家の道場として法灯を守り続けてきている。

 小雨がちらつく9月12日の昼下がり、その延暦寺の一角に小さな祭壇が設けられ、ひっそりと法要が営まれた。辺りが煙るほどのお香がたかれる中、色とりどりの法衣の僧侶たちが読経し散華(さんげ、※仏を供養する際に花を散布すること)した。

 その後、延暦寺執行・小堀光実氏はこう語った。

「9月12日は歴史上、『法難』。比叡山のみならず比叡山を取り囲む地元、裾野の方々に対しても、大変な災難を迎えた日です。いまから450年も前とは申せ、後世に伝えていかねばならぬことだと思います」

 いまから445年前、延暦寺では忌々しい悲劇が起こった。それは織田信長による焼き討ちだ──。

 法要が営まれた「元亀(げんき)の兵乱殉難者鎮魂塚」は、この犠牲者を慰霊するために建てられたもの。この日は焼き討ち犠牲者を供養したのだが、それと同時に“加害者”である信長の供養までもが行なわれていたのだ。“怨み”を持っていたはずの延暦寺が信長を鎮魂するに至るまでには、一体何があったのだろうか──。

 信長が天下布武を唱え、日本統一を進めていく中で、最も残虐な行為と伝えられるのが元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちだ。

 元亀元年からの3年間は、信長にとって苦難の時期だった。1568年、信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した。だが傀儡将軍であることを嫌った義昭は、密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ、“信長包囲網”を敷いた。

 この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。作家で日本史研究家の高野澄氏が解説する。

「延暦寺が信長の仇敵である朝倉・浅井連合を領地に匿い、肩入れしたということが表向きの理由ですが、信長は当時の寺社仏閣の宗教勢力が武器を持って『僧兵』となり、大きな力を持ち始めていたことに強い危機感を覚えていた。

 特に比叡山は広大な寺社領地や豊富な財力を持っており、琵琶湖の湖上運輸の実権も握っていた。また開山以来、朝廷と近い関係を結んでいたのも気に入らなかった。そのため朝倉・浅井を口実に焼き討ちを決行したのです。言い換えれば、信長は“政教分離”を求めた史上初の人物だったともいえます」

 これには家臣の佐久間信盛や武井夕庵らが「鎮守の王城を焼くとは前代未聞」と忠諫(ちゅうかん)したが、信長が聞き入れることはなかった。そして「比叡山延暦寺焼き討ち」を行ない、泣いて命乞いする僧俗3000人を殺戮したと伝えられている。以来、信長は比叡山のみならず、天台宗信徒から「仏敵」と見なされてきた。だが、冒頭で述べた通り、現在延暦寺では信長の鎮魂のために回向法要を行なっている。

 その背景には、これまで「仏敵」だった信長を「比叡山の恩人」と言い出した人物の登場があった。天台宗大僧正・比叡山長臈(ちょうろう)の小林隆彰氏である。

 1970年、延暦寺副執行だった小林氏は比叡山発行の『比叡山時報』で、「新生比叡は信長に功あり」と信長仏敵論に異を唱えた。著書『比叡の心』には、こう記されている。

〈信長にも焼くべき理屈があっただろうし、比叡山側にも焼かれる原因があった。いたずらに信長を憎むのは仏の道に反する〉

 小林氏が主張する延暦寺側の焼かれる原因について、前出の高野氏が解説する。

「最澄が開山した当初の比叡山は『人はみな仏になる』という法華経の教えを広めるべく人材育成に力を入れ、親鸞、日蓮など、多くの名僧を輩出した。

 しかし、平安中期以降、僧たちは権益を要求し、通らなければ日吉神社の神輿を京都にかつぎおろして強訴するなど、その振る舞いは尊大になっていった。朝廷も手を出せず、白河法皇にして『鴨川の流れと山法師、双六の賽は意のままにならず』と嘆かせた」

 戦国時代に入ると比叡山の腐敗は更なるものとなる。「衆徒たちが領地からの年貢を元手に近隣の村人や農民たちに高利貸しを行なったり、足利将軍家の不安に付け込み、幕府を脅かして銭を出させるなど、守銭奴に成り下がった。金を得た僧たちは山を降り、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買った。

 その状況にあっても、延暦寺の宗教的権威は少しも衰えず、日本仏教界の頂点に位置していた」(同前)
http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/femnewsplus/1474641463/ 続きを読む

http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1433731731/
1: 名無しの司馬遷 2015/06/08(月) 11:48:51.88 ID:HfF+lu9n0.net
一向宗、数十万人を虐殺
比叡山焼き討ち、3万人虐殺
浅井長政の母親の指を毎日一本ずつ切断してなぶり殺し
自分を狙撃した人間を歯が欠けたのこぎりでゆっくり首切断

こりゃあ周りもほっときませんわ

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1: 名無しの司馬遷 2015/06/02(火) 19:01:13.08 ID:EPQtUho10●.net BE:194767121-PLT(13000) ポイント特典
sssp://img.2ch.sc/ico/nida.gif
キャンペーン期間中は、6月1日から開始されている“攻城戦”と、6月3日から開始される“乱舞戦”に各10戦ずつ参加することで、最高レアリティであるLE武将の織田信長、お市、
前田慶次の3人の中から1人がランダムでプレゼントされます。

http://dengekionline.com/elem/000/001/061/1061844/
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1: 名無しの司馬遷 2015/05/31(日) 10:06:22.60 ID:???*.net
朝日
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150531-00000013-asahi-ent
 明智光秀が織田信長を討った本能寺の変(1582年)の4年前、
土佐の長宗我部元親が信長の了解のもとで四国征服を進めていたことが、
林原美術館(岡山市北区)が所蔵する石谷家(いしがいけ)文書からわかった。同館と県立博物館が29日、発表した。
元親側から光秀側に宛てた手紙で、元親と信長の良好だった関係が浮かび上がり、
信長の一方的な四国政策の転換が変の引き金になったとする説を補完する史料と言えるという。

 文書から見つかった手紙は、1578(天正6)年に元親の家臣中島重房らが詳細不明の「井上殿」に宛てたものとみられていたが、
東京大学史料編纂(へんさん)所が赤外線写真で撮影した結果、
緊密に連絡を取り合っていた光秀の家臣の斎藤利三と石谷頼辰とに宛てたものとわかった。

 手紙では、信長から元親に出された朱印状に対する感謝を述べ、阿波への出兵など戦略を記しており、
信長の了解を得て、四国征服を進めていた証拠と言えるという。

 だが、その後、急速に勢力を広げる元親を警戒した信長が政策を変え、
土佐と阿波半国のみの領有を認めたことに元親が反発。両者の仲介役の光秀は面目をつぶされ、
信長と元親の間で板挟み状態になったとされる。

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http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1432527212/
no title

1: 名無しの司馬遷 2015/05/25(月) 13:13:32.24 ID:KTNdiBey0.net
帰蝶
吉乃
前田利家
森蘭丸
弥助(黒人メガチンポ)
斉藤道三(身体で美濃を譲り受ける)
明智光秀(本能寺の変痴話喧嘩説)
浅井長政(姉川の戦い痴話喧嘩説)
松永久秀(抜群の性技の持ち主で何度も反乱を許された)

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