1: ニカワ ★ 2016/09/25(日) 02:02:25.35 ID:CAP_USER9
奈良時代後半、朝廷が支配地拡大のため栗原市築舘に造営した政治・軍事施設「伊治(これはり)城」から東北古代史を読み解くシンポジウム(東北学院大アジア流域文化研究所主催)が19日、同市内で開かれた。
「続日本紀」によると、伊治城は767(神護景雲元)年に造営された。780(宝亀11)年、郡の長官だった伊治公(きみ)呰麻呂(あざまろ)が、さらに北方に城を造営するために朝廷から派遣された按察使(あぜち)らを城内で殺害した。呰麻呂は官位を授けられた「蝦夷(えみし)」で、暗殺に続いて多賀城を放火。朝廷は征討軍を送った。
発掘を続ける同市教育委員会の安達訓仁氏は、遺跡は東西700メートル、南北900メートルの範囲に及び、儀式などが行われた「政庁」▽役所の建物が並んだ「内郭(ないかく)」▽竪穴住居、櫓(やぐら)などのある「外郭」--の3区域に分かれた三重構造だったなどと説明。柱穴の焼けた土などを基に、史料類にはない呰麻呂の乱による焼失を指摘した。
朝廷と蝦夷との関係にも発言が続いた。
県文化財保護課の村田晃一氏は、土塁などで外郭まで囲まれた三重構造から、北へ進出する「軍事基地」だったとみると同時に、「律令支配を(栗原地域以北で)行うスタート」として、伊治城を位置づけた。
東北学院大教授の熊谷公男氏は、史料にある呰麻呂が長官を任じられた「上治(かみはり)郡」について、「栗原郡」とは別に朝廷が置いた蝦夷による郡との見解を提示。東北大史料館の永田英明氏は、関東などから9000人の大集団を伊治城に移住させたとの「日本後紀」の記述などを踏まえ、呰麻呂の乱以降、混乱が拡大した背景には移民政策に対する蝦夷側の反感の強さがあるとの見方を示した。【山田研】
http://mainichi.jp/articles/20160924/ddl/k04/040/067000c
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1474736545/
続きを読む
「続日本紀」によると、伊治城は767(神護景雲元)年に造営された。780(宝亀11)年、郡の長官だった伊治公(きみ)呰麻呂(あざまろ)が、さらに北方に城を造営するために朝廷から派遣された按察使(あぜち)らを城内で殺害した。呰麻呂は官位を授けられた「蝦夷(えみし)」で、暗殺に続いて多賀城を放火。朝廷は征討軍を送った。
発掘を続ける同市教育委員会の安達訓仁氏は、遺跡は東西700メートル、南北900メートルの範囲に及び、儀式などが行われた「政庁」▽役所の建物が並んだ「内郭(ないかく)」▽竪穴住居、櫓(やぐら)などのある「外郭」--の3区域に分かれた三重構造だったなどと説明。柱穴の焼けた土などを基に、史料類にはない呰麻呂の乱による焼失を指摘した。
朝廷と蝦夷との関係にも発言が続いた。
県文化財保護課の村田晃一氏は、土塁などで外郭まで囲まれた三重構造から、北へ進出する「軍事基地」だったとみると同時に、「律令支配を(栗原地域以北で)行うスタート」として、伊治城を位置づけた。
東北学院大教授の熊谷公男氏は、史料にある呰麻呂が長官を任じられた「上治(かみはり)郡」について、「栗原郡」とは別に朝廷が置いた蝦夷による郡との見解を提示。東北大史料館の永田英明氏は、関東などから9000人の大集団を伊治城に移住させたとの「日本後紀」の記述などを踏まえ、呰麻呂の乱以降、混乱が拡大した背景には移民政策に対する蝦夷側の反感の強さがあるとの見方を示した。【山田研】
http://mainichi.jp/articles/20160924/ddl/k04/040/067000c