690: 名無しの司馬遷 2014/09/07(日)22:41:17 ID:jJBkNqp3v
イランとイラクの動向に話を戻してみる。

ホメイニ率いるイラン・イスラーム共和国は、当初は東西冷戦のどちらの陣営にも与せず、
イラン国内で「法学者の統治」を貫徹していくことだけを目指していたらしい。
ホメイニによれば「アメリカ逝ってよし、ソ連も逝ってよし」とのこと。

しかし、アメリカ大使館占拠事件やイラン・イラク戦争など、激動する政治状況のなかで
イランはむしろ、積極的にイスラーム革命の理念を「輸出」していくことにした。

ホメイニによれば、そもそもナショナリズムなんていうのは西欧の異教徒どもが
イスラーム世界を分断するために捏ね上げたもので、ムスリムは国境なんぞにとらわれず、
全イスラーム世界でイスラーム法が施行される理想の社会を実現すべきだというのである。

要するに「万国のムスリムよ、団結せよ!」ということか。

イラン政府は「革命委員会」なるものを組織して各国のイスラーム復興運動を煽り立てたり、
諸外国の大使館を拠点にイスラーム革命の宣伝を行ったりした。

その結果として、イラン革命から1年も経たないうちにサウジアラビアでアル・ハラム・モスク占拠事件が起こり、カディーフの町ではシーア派の大暴動が発生した。

イラクでは第二次世界大戦以来、スンナ派に抑圧されてきたシーア派信徒がナジャフの最高位法学者バーキル・サドルのもとで「ダアワ党」として纏まりはじめていたが、ダアワ党とイランの結びつきを恐れたイラク大統領サダム・フセインは、バーキル・サドルを処刑し、ダアワ党を弾圧した。
聖地ナジャフの最高位法学者が処刑されたことはイスラーム世界に激甚な衝撃を与えた。
ダアワ党の残党はテヘランに逃れ、イラン政府に協力してイラク軍と戦うことになる。

1981年にはペルシア湾岸の小国バーレーンでシーア派組織による政府転覆計画が発覚。
1983年にはクウェートでダアワ党の煽動による爆破テロが頻発。
さらに、レバノンでイスラエルの侵入に対抗して生まれたシーア派民兵組織、ヒズブラもイランの影響下に入る。

そんな風にイランはスンナ派諸国に揺さぶりをかけるとともに、イスラーム革命を連鎖発生させようと頑張ったのだが、
当然ながら周辺のスンナ派諸国、そして欧米諸国もイランを重大な脅威と見なして袋叩きにした。
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